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行田市に昭和まで残っていた古代の海

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2019.6.6 行田市に昭和まで残っていた古代の海
 
昭和12年まではちゃんと形が残っていた稲荷山古墳が昭和43年には円墳のようになっていたのは、周辺の沼を埋め立てるために前方部が使われてしまったためだそうですし、
 
昭和12年の稲荷山古墳
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関東の石舞台」と呼ばれる長さが16.7mもある八幡山古墳の巨大な石室がむき出しになってしまったのも、1934年に小針沼の干拓工事で盛土が取り去られてしまったためだそうです。
 
関東の石舞台(八幡山古墳)
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さらに現在「古代蓮の里」となっている所や周辺の水田地帯は、昭和50年代まで小針沼(別名:埼玉沼)と呼ばれる広大な沼だったそうですし、鴻巣カントリークラブは屈巣沼と呼ばれていた沼だったのだそうです。
 
8世紀初めに高橋虫麻呂が「さきたまの 小埼の沼に 鴨ぞ羽霧()る・・・」と詠んだ小埼沼は、現在は小さな池となって水田の中に残っているようですが。
 
そんなにいくつも大きな沼があったのかな?と調べてみると、「埼玉村と小針村の間で名称争いが起きたため、1696年に幕府の裁許によって埼玉沼へと改められた」という記事がありましたから、同じ沼が埼玉村では尾崎(小埼)沼や埼玉沼、小針村では小針沼と呼ばれていたということでしょうか。
 
いずれにしても、現在水田の広がる行田市の平野は、古墳時代には東京湾の一部の「さきたまの津」のあった海で、昭和50年代というごく近い頃まで、その痕跡が沼や湿地として残っていたようです。
 
桶川市の資料館には台地と道という展示があって、「広大な関東平野の中央に低い島のように浮かぶ大宮台地」と記されていましたが、
 
「台地と道」
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大宮台地は島のようだったのではなく、本当に島だったのです(^o^)
 
大宮台地
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だから、大宮台地の縁には旧石器時代からの遺跡や貝塚や古墳がたくさんあるのですよね。熊野神社古墳もその一つで4世紀の大国主の時代に造られた古墳であり、この台地の縁沿いには旧石器時代の遺跡も、縄文時代の遺跡も、弥生時代の遺跡も、57世紀の古墳時代の遺跡や古墳もたくさんあるようです。
 
昨日は江戸川区の「ここにいてはダメです」というハザードマップがニュースになっていましたが、江戸川区も、2018年に大水害になった真備町も、2017年の九州北部豪雨で水浸しになった朝倉町も、2015年の豪雨で水浸しになった関東・東北の平野部も、みな古墳時代には海で、江戸時代まで湿地だった所なのです。

 

 

 

 

 

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