2015.12.3 北海道の縄文遺跡2
私は関東以北のことについてはほとんど知識がなかったので、北海道に縄文時代の遺跡があることは、しばらく前に新聞に載っていた「道の駅縄文ロマン南かやべ」という小さな記事を見て知ったのですが、函館市南茅部地域では、縄文時代早期から晩期にかけて約7000年もの間、連綿と縄文文化が栄えていたのだそうで、道の駅の近くにある大船遺跡では、縄文時代中期(約5,500~4,000年前)を中心とした大規模な集落跡が見つかっていて、縄文中期の住居跡が120軒以上発掘されているそうです。
これまで関東近辺で見た縄文時代の集落の遺跡は、5・6軒から10数軒くらいの規模でしたから、120軒以上というのは大都市ですよね。それだけの人が集まって長い間暮らしていけたのですから、やはりよほど暮らしやすく、食料も豊富だったのでしょう(^o^)。食料が乏しく奪い合うような状況で人口が増えたり、長い間にわたって文化が栄えたりしたはずはありませんものね。
土浦市の上高津遺跡 復元されていた住居は3基
北杜市の金生遺跡 やはり復元されていた住居は3基
富士見町の井戸尻遺跡 ここでは12基の竪穴住居跡が見つかっているそうです
ところで、資料を整理していたら「歴史に見る人口変動」という記事が出てきたのですが、この記事によると日本の人口が長期にわたって増えた時期が、縄文時代前半、弥生時代から平安時代、室町時代から江戸時代前期、幕末から21世紀初頭の4回あったそうで、縄文時代後半、鎌倉時代、江戸時代中・後期、そして現代には人口が減少していたのだそうです。
縄文時代前半に日本の人口が長期にわたって増加したのは、この時期に気温が上昇して日本列島は食料資源が豊富になったためだそうですから、やはりここまで推理してきたように、縄文文化が栄えていた縄文早期~中期には函館や青森の辺りは暖かくて雪が積もることなど無く、一年中食料も豊富で暮らしやすかったのですね(^o^)。ゴホウラ貝も、わざわざ3000kmも先の沖縄まで交易しに行かなくても、もっと近くで採れたのでしょう(^_-)。
ところが縄文中期から気温が下がり始めたため、クリなどの落葉樹林の生産力が落ち、西日本では照葉樹林が広がって食料が減ったために人口が減っていき、縄文末期には人口がピーク時の三分の一くらいになってしまったのだそうです。
北海道の大船遺跡の集落が縄文時代中期(約5,500~4,000年前)を中心としたものであるのは、それ以降はだんだん寒くなってきて暮らしにくくなり、食料も得にくくなってきたために人口が徐々に減少してきていたことを示しているのでしょう<(_ _)>。一部の人たちは青森やもっと南の暖かい所へと移動して行ったのかもしれませんね。
ところで、この記事は歴史学者さんではなく経済学者さんのお話でした。やはり歴史はロマンではなく、経済の視点から見た方が現実に即していて論理的に納得できるようです(^_-)。
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