2015.12.2 北海道の縄文遺跡と気温・気候
気温の上昇と言えば、以前北海道に縄文草早期の遺跡があってたくさんの人が住んでいたことや、青森の三内丸山遺跡には大型の建造物があってその建物には栗の巨木が使われていたことや、そのような巨木は珍しいものではなく、この時代の北日本にはたくさんあったことなどを知った時、なぜ?と頭の中が「?」でいっぱいになってしまいました(^_^.)。
北海道の積雪のニュースや、家のすぐ前にいるのに突然何も見えなくなって方向感を失い凍死してしまうこともあるという青森の地吹雪のすさまじさなどを聞いていたので、なぜそのような気候の厳しい所でたくさんの栗の木が巨木に育つことができたのだろう?暖房設備や流通機構などの無かった時代に、なぜそのような雪の多い寒い所にたくさんの人が住んでいたのだろう?縄文人は雪や厳しい寒さをどうやってしのいでいたのだろう?雪に閉ざされた長い冬の間の食糧はどうしていたのだろう?なぜもっと暖かくて暮らしやすい所に移動しなかったのだろう?と次々に疑問が湧いてきて、不思議でならなかったのです。
ごく普通に考えれば、採集や狩猟で自給自足の生活をしていたとされている縄文時代の人々は、その生活スタイルに合った一番暮らしやすい所を選んで生活していたはずで、規制があったわけでもないのにわざわざ半年も雪があるような環境の厳しい所を選んで住んでいたはずはないのだから、それならひょっとするとその当時は今よりずっと気温が高くて雪など全く降らず、北海道や青森の辺りは一年中狩猟や採集や漁ができて食料が豊富であり、日本列島の中で最も暮らしやすい地だったのではないか?と考えました(^o^)。
そんなことを考えている時に、北海道の遺跡から奄美大島以南の熱帯や亜熱帯地方でしか採れないゴホウラ貝の貝輪が出土していて、「それは縄文人が幅広く交易していたことを示すものだ」とする学者さんの見解を知ったのですが、私は「貝の採れる所まで片道3000kmは丸木舟で交易に出かけて行くのには遠すぎるし時間もかかり過ぎるから、その貝は交易で遠方から運んできたのではなく、近くで採れたのではないだろうか?」とロマンで解釈する歴史学者さんたちとは程遠い、現実的なことを考えてしまいました(^_-)。
「交易していた」ということは「3000km先には島があり、そこに行けばこの貝が手に入る」ということが分かっていて、そこまでの航路が開かれており、行き来があったということだろうと思うのですが、本当にそうなのでしょうか?必需品というわけでもないこの貝の装飾品にそれほどの価値があったのでしょうか?
ゴホウラ貝は↓のような巻貝です。古代人の価値観はもちろん私には分かりませんが、見たところ命懸けの長旅をして入手するほどの価値のあるものとは思えないのですけれどね~(^_-)。
縄文時代には日本の人口の三分の一以上が関東以北に住んでいたのだそうですが、それは関東以北が最も人が暮らし易く、多くの人を養うだけの豊富な食料があったということでしょうし、巨木がたくさん育っていたのですから、やはり当時の北海道は暖かくてゴホウラ貝もすぐ近くで採れたのではないでしょうか。
環境が厳しくて食料を奪い合うような所では人口が増えることはありませんし、生活に余裕がなければ文化も育ちませんし、何よりも南北に長い日本列島の中で、わざわざ環境の厳しい所を選んで多くの人が集まって住んだりはしなかっただろうと私は思うのですが(^_-)。