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井上さまのコメントへのお返事2

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2019.4.26 井上さまのコメントへのお返事2
 
水戸市の長者山から茨城大学にかけての一帯が、崇神天皇とヒメタタライスズヒメノミコト(=ホトタタライススキヒメ)(オオヒコノミコトの孫で事代主の娘)との間に生まれた神八井耳命(カムヤイミミノミコト=建借間命)の宮跡のようで、7世紀に国造制が律令制に移行して国司が中央からやってくるようになるとその子孫は郡司となり、律令制が藤原氏によってなし崩しにされた10世紀頃には「一盛長者」となっていたようですが、その財力を恐れた源義家によって後三年の役の後、滅ぼされてしまったようです(T_T)
 
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大井神社の由緒では、神八井耳命は神武天皇の長子となっていましたが、『古事記』では長子は日子八井命で、神八井耳命は次男、神沼河耳命が三男になっているようです。
 
ちなみに日子八井命(ヒコヤイノミコト=トヨキイリヒコ)は、東征後に毛野国(上毛野・下毛野に分けられる前の国)の初代国造となり、死後は東日本最大の前方後円墳である群馬県太田市の天神山古墳に葬られ、神沼河耳命(カムヌナカワミミノミコト=イクメイリヒコ)は河内で初代・崇神天皇の跡を継いで第2代・垂仁天皇なっています。
 
この辺りの系図と推理は「古代の地形から『記紀』の謎を解く」に入れてありますのでご参照ください。
 
『記紀』は歴史を1000年水増しして初代天皇を紀元前の神武天皇だとしているため、天皇家の系図ではこの神沼河耳命は初代・神武天皇の息子で第二代綏靖(すいぜい)天皇になったと騙られ、実際の初代・崇神天皇は第十代、第二代垂仁天皇は第十一代ということになっています。
 
垂仁天皇(イクメイリヒコ)が本当に三男だったのか、水増しした部分の作り話では兄弟の順番を入れ替えてオハナシを作ったのかどうかは分かりませんが<(_ _)>、普通に考えれば、跡継ぎの長男が戦場に出ることはなく、戦場に出されるのは跡継ぎ以外の弟たちですよね。墓(古墳)の大きさや領地の大きさも合わせて考えると、本当は神沼河耳命(イクメイリヒコ)、日子八井命(トヨキイリヒコ)、神八井耳命(建借間)の順かもしれません

いずれにしても崇神天皇以前の100年以上も生きていたことになっている天皇たちはみな『古事記』が作った架空の人物で、水増しした1000年分を埋めるために一人当たり100年以上生きていたことになっているのです(^o^)。

 
建借間命が宮を構えていたこの長者山一帯が5世紀の那珂国の中心だったようで、律令制に移行して那珂国が常陸国の那珂郡になると、この一帯には那珂郡衙や正倉や郡寺(台渡廃寺)が造られたようです。
 
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郡寺(台渡廃寺)跡
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愛宕山古墳も、正倉跡も台渡廃寺(郡寺)跡も、大井神社も、みな那珂川(当時は海)に面した台地の端に造られています。
 
 
井上さまは文献をたくさんお調べになって文献から解釈をなさっているようですが、文献は書いた人が自分の都合の良いようにどのようにでも書くことができたものなのなのですから、歴史全体の流れの中で矛盾しているところがないかどうかを確かめ、その真贋や騙りの部分と事実を反映している部分とを見極めていかないと、これまで山のように出ている既存の歴史解釈本と同じような部分的なつじつま合わせの解釈になってしまうかもしれません。
 
 
 

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