井上と申します。伊勢神宮に祀られる天照大御神はすり替わった持統天皇と考えております。茨城県那珂川付近にあった那珂国の国造は太氏一族建借間命とされ、大化2年の詔で国司・郡司が置かれ、常陸風土記では香島郡の設置は649年、隣の那須国は那須国造碑に記される様に持統天皇3年に下野国に統合、那須郡となった。国造→郡司。持統天皇の第一子は女性で、丹生都比売命を語り神道集の一宮事に『荒船の神と諏訪の建御名方神が夫婦に成り尾崎郷で暮らした』と記されます。二人が出会ったのは群馬県下仁田町大字南野牧の荒船神社に比定しています。そこが元宮で上野国一之宮『貫前神社』が朱と水銀採集をしていた丹生郷と繋がります。安中市磯部の咲前神社ホームページ由緒に『建御名方神』を荒船山に追い払ったと有ります。建御名方神と丹生都比売が暮らしていた地は神道集に甘楽郡尾崎郷とあり、群馬県富岡市妙義町諸戸字尾崎、同町菅原字尾崎付近に比定。(倭名類聚抄には那非郷とある)690年の元旦に持統天皇即位。
2019/4/24(水) 午後 3:16 [ off***** ]
アマテラスも天孫降臨も『古事記』の作り話ですし、江戸時代までアマテラスは男神だったようですから、持統天皇とは関係ないと思います。
建借間命とは、オオヒコノミコト(崇神天皇の伯父.で古代皇別貴族・意富(大)氏の祖。稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣にヲワケ臣の上祖(かみつおや)として刻まれている意富比古命)の曾孫であり、事代主命(=アジスキタカヒコネノミコト=鴨大神=最後の大国主の息子)の孫で、崇神天皇の息子であった神八井耳命(カムヤイミミノミコト=タケミカヅチノミコト)なのです。借間は鹿島でしょう。
鉄剣銘文
建借間命は国津神(神別氏族)の事代主の孫ですが、天津族の王族・オオヒコノミコトの曾孫でもあるので、王族・貴族の出自を記した『新選姓氏録』では神別氏族ではなく皇別氏族に分類されているのです。
この建借間命は、東征後に初代那珂国造となって現在の水戸市の長者山に住み、死後は那珂(仲)国最大の前方後円墳である水戸市愛宕町の愛宕山古墳に埋葬されて、子孫によって水戸市飯富町の大井(意富比)神社に「初代仲国の国造・借間命」として祀られています。
ちなみに表向きはタケミカヅチ(=建借間命)を祀っていることになっている鹿島神宮は、実際は鎌足の子孫が現在に至るまで宮司を継いできた中臣(藤原ではありません)氏の祖廟であって「意富(大)氏」の祖廟ではなく、鹿島には建借間命のお墓もありません。
愛宕山古墳
後円部の高さ
建借間命を祀る大井神社
この時は2011.5で、東日本大地震の後だったので、鳥居が崩れてしまっていました。
大井神社由緒
この結論は、現場検証と論理的な推理で導き出したものですが、『記紀』の作り話の謎を解く推理はとても複雑なので簡単には説明できませんし、↑のような部分的な説明では何のことか分からないかもしれません。もしご興味があれば「古代の地形から『記紀』の謎を解く」をお読みいただければと思います。