昨日たまたま『火の路』のことを思い出したのですが、今年は「松本清張生誕110年」にあたり、神奈川近代文学館で「巨星・松本清張展」が開催されているそうです(5.12まで)。
清張氏は、様々なことに疑いを持ち、現場検証をして論理的で緻密な推理をしていましたよね。その手法は日本のノンフィクションや社会派ミステリーの先駆けであり、「それまでの作家像を大きく変えた」のだそうです。ということは、それまで「作家」というのは「事実や真実を追及する人」はいなくて、文字通り「オハナシ(フィクション)を作る人」だけだったようです。オハナシならあることないことウソでも願望でも何でも書けるのですよね。
一時下火になっていた社会派ミステリーは最近勢いを取り戻しつつあるそうですが、娯楽性ばかりの作り話や非論理的なつじつま合わせばかりの解釈ではあきたらなくなってきたということでしょうか(^_-)。
常陸国司となった藤原宇合は藤原4兄弟の一人で、当時の藤原氏は大津皇子や草壁皇子を始めとする天武天皇の皇子たちを排除して権力を握るために、一族をあげて次から次へと陰謀を仕組んでは大勢の人を殺していたようですから、そんな時期に宇合が本当に都を離れて常陸にやって来ていたのかどうか、任期の間中ずっと常陸にいたのかどうか分かりませんが、『常陸国風土記』の「地誌」としての正確さや、万葉集に収録されている高橋虫麻呂がつくばの歌垣で詠んだ歌や、那珂郡衙のあった水戸市で詠んだ歌や、当時武蔵国府があったと思われるさきたま(現・行田市)で詠んだ歌などを見ると、宇合の側近(腹心)だったらしい虫麻呂は実際に常陸国府に来ていて、そこから常陸国の主な郡衙や隣の武蔵国の国府などに足を運んでいたようです。
足を運んだといっても、当時関東平野は海だったことを考えると、歩いて行ったわけではなく船で移動していたのだろうと思いますが(^o^)。
海だったことを確かめようと2016年に東松山市に出かけてサメの歯を拾ってきたのですが、1500万年前の東松山市はサメやクジラの泳ぐ深い海だったのです。