2015年までは、この季節には江戸川や利根川の土手がカラシナの花で一面に黄色く染まっていたのですが、2015年にこのカラシナの根が堤防を傷めるということでナノハナを撲滅する作戦が始まり、この時流山でも地元の人が「菜の花まつりももう今年でおしまいだ」と言っていました。2017年に茨城自然博物館に行った時には、確かにカラシナは激減していたのですが、その後どうなっているかなと思って、今年はそちらから菅生沼に向かってみることにしました。
一時は減っていたナノハナは、恐ろしいほどの繁殖力で復活してしまったようで、土手は2015年と同じように一面に黄色く染まって甘い蜜の香りに満ち、たくさんのモンシロチョウが舞っていました。
2015.4の土手
2019.4の土手
ナノハナ撲滅作戦は頓挫してしまったのでしょうか。美しい春景色は戻っていたのですが、大雨や大水害が激増している昨今、ナノハナの復活を喜んでいいのかどうか<(_ _)>。
菅生沼付近では木々が芽吹き始めていて、土手にはナノハナ・タンポポ・ギシギシ・ヒメオドリコソウ・カラスノエンドウ・オオイヌノフグリなどの花が咲き、ツクシもたくさん出ていて、木のある所ではウグイスが鳴きかわし、畑にはヒバリが上がっていて春爛漫でした。
この季節にはいつも、高橋虫麻呂が『常陸国風土記』に記した「昔の人が常世の国と言ったのは、こういう国なのではないか」という言葉を思い出すのですよね(^o^)。
↓は博物館にあった茨城県の地質を示した図で、濃い色の所が古い地質、色の薄い所は関東ローム層や砂や泥などの新しい地層なのですが、この新しい地層は虫麻呂が常陸国司となった藤原宇合に随行して常陸にやってきた8世紀初めには海だったのです。
虫麻呂が筑波の歌垣で詠んだ「鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津の 其の津の上に・・・・」の歌を、学者さんたちは筑波山に「津」があるはずはないから謎だとしているのですが、虫麻呂がこの歌を詠んだ頃、筑波山の麓は本当に海で「津」だったのです。ここには「裳萩津」の字名もちゃんと残っていました。
8世紀には海だった所は、現在は霞ケ浦や関東平野になっていて、古い地層の筑波山と北茨城は「ジオパーク」に認定されています。
ところで今日の『ワカタケル』では、「ワカタケルが送った兵によって 新羅は倭の支配するところとなった」とされていたのですが、そんな事実はないようですけれどね~。