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武蔵野台地と湧水83 新川丸池公園3

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2019.3.12 武蔵野台地と湧水83 新川丸池公園3
 
丸池公園の地図には「島屋敷遺跡」もあったのですが、調べてみるとこの遺跡は低地に浮かぶ島状の台地を中心とした遺跡だそうで、『新編武蔵風土記稿』には「中世武士団である金子氏の屋敷があったとの伝承と、「17 世紀初頭に旗本柴田氏が陣屋を構えた」という記載があるそうです。
 
すると17 世紀初頭に陣屋を構えたという柴田氏が勝家の兜を勝淵神社に祀った勝家の孫の勝重だということのようですが、元禄 11 年(1698 年)に柴田氏が三河に転封になった後は、ここは徳川氏の直轄領となったようです。鷹狩のためですね(^o^)
 
そもそも「三鷹」という地名は、かつて徳川将軍家および御三家が鷹狩を行った鷹場の村々が集まっていたことと、世田谷領・府中領・野方領にまたがっていた「三領の鷹場」に由来するようですが、縄文時代以降はあまり人の住まない原野となっていた武蔵野台地は獲物が豊富だったようです。

イメージ 1

イメージ 3

また、ここからは旧石器・縄文時代の遺物や古代の住居跡も発見されているそうですから、やはり旧石器時代の人々は「中央の学者さんたちの定説」のように定住せずに移動・キャンプ生活をしていたのではなく、湧水の周りに30000万年前からずっと定住していたのだろうと思います。
 

旧石器時代の人々は定住していなかったとする学者さんたちは、↓のようなキャンプ生活を想定しているようですが、


イメージ 2

それでは学者さんたちは、彼らは住まいの材料一式を担いで移動していたと考えているのでしょうか???

 
もし学者さんたちが移動した先々で材料を調達していたのだと考えているとすると、キャンプに適した場所を見つけ、材料を集めて家を造るだけでも1日かかってしまうと思うのですけれどね~。
 

古代の人々がそんな無駄なことをしていたはずはありませんよね(^_-)。そんな非効率的なことをしなければならない理由もありませんし。それに移動ばかりしていたのであれば、生活に必要な石器や衣類はいつどこでどうやって作っていたというのでしょうね?どうも学者さんたちが考えていることは私には現実離れしているような気がするのですが<(_ _)>

 
↓にコメントをくださった[ fri***** ]さまは、「中央の学者さんたちの言うことは何でも間違いない」とお考えのようですが、私はやはりチコちゃんに「いつまでもボーッと非論理的な受け売りばかりしてんじゃね~よっ!!」と叱ってもらいたいと思います(^_-)
 
 
  
 


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