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武蔵野台地と湧水84  ICU博物館

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2019.3.13 武蔵野台地と湧水84 ICU博物館

 

丸池公園まで行ってみたのですが、「三鷹遺跡展示室」はこの日も閉まっていたので、ICU博物館に向かうことにしました。その辺りには旧石器時代からの遺跡がびっしりと並んでいて、ICUの構内だけでも現在35ケ所の遺跡が確認されているそうですが、ここも休日には開いていませんから千載一遇のチャンスということで(^o^)

 
国分寺崖線や野川沿いには↓のように遺跡がびっしりと並んでいるようです。
 
イメージ 1

ICUは武蔵野段丘上にあって、その構内には少なくても35ケ 所の「構内遺跡」があり、ICUのゴルフ場だったハケの下には野川遺跡があるようですが、↑の分布図を見ると、濃いオレンジ色の遺跡と薄いオレンジ色の遺跡がはっきりと分かれているということが一目瞭然ですね。
 
濃いオレンジ色の遺跡の並んでいる下に引かれているグレーの線は国分寺崖線で、薄いオレンジ色の遺跡に沿って引かれているグレーの線は恋ヶ窪の湧水を源流とする野川です。
 
つまりこれは、濃いオレンジ色の遺跡群は国分寺崖線に沿って武蔵野段丘面の縁に並んでいるということであり、薄いオレンジ色の遺跡群は国分寺崖線の下の立川段丘面を流れる野川に沿って並んでいるということなのです。

イメージ 3

 濃いオレンジ色の遺跡群からは先土器(旧石器)時代からの遺跡や遺物が、薄いオレンジ色の遺跡群からは縄文早期からの遺跡や遺物が発見されているようですから、30000年前には崖線の上の武蔵野段丘面に住んでいた人々は、時代が下るにつれて徐々に崖線の下の川段丘面に下りて来たということでしょう。
 
イメージ 4

これは、旧石器時代には住むことのできない土地だった立川段丘面が、時代が下るにつれて武蔵野段丘面よりも住みやすい土地になったからであって、その後、さらに土地の隆起や海退によって海や湿地だった所が人の住める土地になっていくにつれ、人々はさらに下位の青柳段丘面、さらにその下の多摩川低地へと移動していったということなのです。
 
そして、それこそが30000年前には多くの人が住んでいた武蔵野が、縄文時代以降はあまり人の済まない原野になっていた理由であり、現代の都市はさらに低い、江戸時代頃までは海や湿地だった所や昭和まで海だった所を埋め立てた低地に広がっているのです。
 
先日の新聞に「30年前に北海道沼田町で見つかった化石のクジラは700万年前に生息していた新種だったことが分かってヌマタナガスクジラと名付けられた」という記事がありましたが、

イメージ 2

アキシマクジラが見つかった東京の多摩川も、ツキガタクジラが見つかった北海道の月形町も、ヌマタナガスクジラが見つかった沼田町も、そのクジラが生きていた時代には深い海だったのです。
 
ツキガタクジラ533万~360万年前)
 
アキシマクジラ(160万年前)
 

 


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