2019.1.21 武蔵野台地と湧水37 池と湧水13 塚山遺跡4
2019.1.18の続きに戻ります。
塚山遺跡は海に面して北に突き出した舌状台地だったようで、住居跡が↓の図の南の方にさらに広がっていたのは、南以外は斜面だったからでしょう。
北西側は一段低いグラウンドになっていましたが、これは斜面を削って平らにしたのではないでしょうか。
グラウンドの向こうに見えている木立が神田川の対岸の浜田山で、ここでも台地の端は「山」と呼ばれていました。その低地に面した端は「柏の宮公園」になっているのですが、ここにも湧水池があったそうです。その西側に続いている斜面は「三井の森公園」になっていて、そこにも池があるので調べてみると、そこもやはり湧水池で、以前は釣り堀になっていたそうです。
「柏の宮公園」は日本興業銀行のグラウンド、「三井の森公園」は三井のグラウンド(三井上高井戸運動場)の跡地だそうで、グラウンドの周囲や斜面には武蔵野の自然地形が残されていたようですが、三井の森は、現在は大部分がマンション群になっていて、わずかに神田川左岸の崖線斜面とその下の低地部分が公園化されて残っているのだそうです。
武蔵野台地には本当にたくさんの湧水とそれを水源とする小川があったのですね。そして、農地が宅地化されて農業用水として使われなくなった後は、湧水池は釣り堀になっていたところが多いようですから、釣り堀があった所は湧水池だった可能性が高いようです(^o^)。
塚山の管理棟には↓のパネルがあったのですが、旧石器時代~縄文時代には海だった石神井川・妙正寺川・善福寺川・神田川などの川に面した武蔵野台地の端には、湧水ごとにたくさんの集落があったようです。
上から妙正寺川・善福寺川・神田川
善福寺池の周辺の遺跡の規模が最も大きいこの図を見ながら、集落の規模(住人の数)は湧水の量と関係があるのではないだろうか?と考え、そうであれば三大湧水の井の頭と石神井にも同じくらいの規模の集落遺跡があるのではないか?と考えたのですが、↑は杉並区が作ったものなので、練馬区の三宝池と石神井川は記されていませんし、神田川はあるのですが、その水源の井の頭は杉並区ではないので記されていません(T_T)。
その資料や情報はまた別々に、石神井については練馬区、井の頭については三鷹市と武蔵野市の資料館を探して行ってみなければならないのですが、この市区町村や県や国といった現代の区分でしか歴史を考えないということが、歴史を考える上で大きなネックとなっているのではないかと私は思います。
縦割りなのか、お互いに相手の領分を犯してはならないという不文律でもあるのか、どの資料館でもきっちりと境界線までしか記されていませんし、その範囲内でしか考えられていないようなのですが<(_ _)>、古代にはそんな境界などは一切なくて、古代人の行動は区や県や国といった境界内で完結していたわけではないのに、境界内だけでつじつまを合わせようとするから、訳の分からない非論理的な解釈になってしまうのですよね<(__)>。
例えば、北区では12~3万年前には北区全域が海で、渋谷区では縄文中期には代々木八幡は海辺だったとしているのに、杉並区では海のことは全く念頭になく、川の浸食だけで地形を考えているというように。
その「境界限定思考」の弊害の最たるものが、歴史学者さんたちによって量産されている「日本の国内だけで『記紀』の作り話のつじつまを合わせる非論理的な歴史解釈」だと私は思います。国境の枠を外せば、エジプトやギリシャや中国でニンゲンの文明が栄えていたのに日本ではカミサマが国を作っていたなどというオハナシがどれほど荒唐無稽なものかすぐに分かるはずですし、学問の枠を外してほんの少しでも自然科学に眼を向けてみれば、イザナミが日本列島を生んだり、カミサマが降臨してニンゲンになったりしたはずはないということが分かるはずなのですけれどね~<(_ _)>。