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武蔵野台地と湧水36 池と湧水12 三四郎池

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2019.1.20 武蔵野台地と湧水36 池と湧水12 三四郎池
 
家康が江戸に入府した頃、江戸城の付近は漁師の家が散在するだけの寒村だったそうですが、その頃は大手門から新橋駅の方へと幅1kほどの岬が伸びていて、岬の東側は江戸湊、西側は日比谷入り江になっていたことが分かっているようで、江戸城の旧本丸跡には貝塚もあるそうです。武蔵野台地では、海に面した端という端に旧石器時代や縄文時代から人が住んでいたようですね(^o^)
 
現在の不忍池も古代には入り江で、根津は文字通り舟の着く「津」だったようで、弥生式土器の名前の元になった土器が発見された本郷台の端の弥生町でも貝塚や住居跡や墓などの遺跡が発見されています(^_-)

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不忍池が入り江だったこと、根津が「津」だったこと、椿山荘の下(神田川)が海だったことなどは「本郷区史」に記述があるようで、椿山荘の横の旧目白坂の幸神社には、この崖の下は入り江だったことが記されていました。
 
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不忍池といえば、その近くの本郷台には「三四郎池(育徳園心字池)」がありますが、これも湧水池だったのではないか?と調べてみると、水源は不明のようですが、東京大学の工学部3号館の建て替え工事の時に谷川の跡が発見されていたそうで、この池から流れ出した水は小川となって入り江(不忍池)に流れ込んでいたようです。
 
ということは、川になって流れ出る量の水が常に供給されていたということになりますから、この池もやはり湧水池で、水源は武蔵野台地の宙水だったのでしょう。ご多分にもれず、この池も現在は井戸水を流しているのだそうですが、これも都市化によって宙水が枯れてしまったからなのでしょうね<(_ _)>
 
調べてみたら、史料編纂所は三四郎池の近くにあるようですが(^o^)、古文書を見ても本当のことが書いてあるとは限りませんし、Kojitaさまのご意見によれば「日本史村」の巣窟のようですから、その解釈もあまり信用できないのではないかと思うと見学にはあまり食指は動きませんね~<(_ _)>
 
私は古文書をすらすらと読み下すような能力は持っていませんから、古文書と格闘するのは日本史村の学者さんたちにお任せしておいて、武蔵野の湧水と暗渠化されたかつての川を辿ることに専念することにします(^_^.)。でも、その学者さんたちも「すりきれた昔の記録ばかりいじっていないでもっと文献以外のものも見た方がいいのではないかとは思いますけれれど(^_-)。

ところで「聖徳太子」ですが、確かに2017年の新学習指導要領で一時は「厩戸王」に変更され、他人のものだと分かった肖像画も教科書から消えるというニュースがあったのですが、
 
無批判に『記紀』の神話を信奉する(させたい)人たちによって、アッという間にひっくり返され、「聖徳太子」の名前も、他人のものだと分かっている肖像画も教科書に復活してしまったようですよ。
 
かろうじて認められたのは、「聖徳太子の肖像画」を「聖徳太子と伝わる肖像画」に変えることだけだったようです。
 
論理性やクリティカル・ラーニングを完全に否定する一連の出来事は、国会議員の大部分が「日本会議」に属しているという「神懸かり内閣」のうちに「神道教育」で国民を洗脳してしまおうとしているようにしか私には見えないのですが・・・・
 
 
 


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