2019.1.5 武蔵野台地と湧水22 井草川3
湧水池があったのが↓の場所かどうかは分かりませんが、
湧水のある所には旧石器時代から人が住んでいたようです。環状住居跡と言われているものは、湧水を囲むように住居が作られていたのではないでしょうか。人々の生活に日々欠かすことができないのは、まず第一に水だったのですから。そして集落の大きさは、その湧水の量で暮らしていけるだけの戸数だったのではないかと思います。
湧水が枯れてしまった今は、↑から↓の水路に水を流し、
ここから先を暗渠にしているようですが、川の跡らしき道を辿ってみると、川は
と流れ下り、先に見えている道を横切って杉並工業高校のグラウンドに沿うように流れていたようですが、その先はよくわかりませんでした。
左側が杉並工業高校のグラウンド
切通し公園には、他にも水路跡なのかな?と思うような道がありましたから、この付近には他にも小さな湧水がいくつかあって井草川に合流していたのかもしれません。この「切通し」がどこを切り通したものなのかが分からないのですが<(_ _)>。
普通、学校は高台にあることが多いのですが、この杉並工業高校は低い所にあり、この学校の向こう側には「三谷公園」があって、妙正寺公園まで続く井草川遊歩道は、この公園から始まっているようでしたから、そこまでの井草川の暗渠は学校の敷地内に取り込まれているのかもしれませんね。
「三谷」という地名から見て、ここは周辺の湧き水の流れ込む谷地形の低地で、以前は水田だったのかもしれません。杉並工業高校の創立は1962年だそうですが、その当時は畑だったので学校用地としての広さを確保できたのかもしれません。そのあたりのことは多分「杉並区史」には記されてるだろうと思うのですが。
ところで学者さんたちは、旧石器時代の人々は定住せずに移動狩猟生活をしていたとしていますが、それは間違っていると学者さんたちとは違って現実的なおなごである私は思います(^_^.)。どこにでも湧水のある暮らしやすい場所があったわけではありませんし、その人たちの中には妊婦や幼児や生まれたばかりの赤子もいたはずですから、常に移動し続けることなどできなかったでしょうし、狩には足手まといになる赤子や幼児を連れて豊かな湧水があって暮らしやすい理想的な場所から移動しなければならない理由はなかったでしょうし。
縄文時代の遺跡の下からはたいがい旧石器時代の遺物が見つかっているようですが、縄文人とは旧石器時代人の子孫なのですから、旧石器時代から人々は同じ場所にずっと住んでいたけれど、旧石器時代の住居はその痕跡が残っていないだけなのではないでしょうか。もし木や草をさしかけただけのような住居だったのであれば、その痕跡は残らなかったでしょうから。
複合遺跡という言葉がよく出てきますが、旧石器時代の遺跡の上には縄文時代・弥生時代・古墳時代・奈良~平安時代の遺跡が重なっていることが多いようです。これは旧石器時代人が住んでいた場所には、その後もずっと人が住み続けていたということで、海面が高かった頃の湧水がある台地の端は、最も暮らしやすい場所だったということなのだろうと思います。