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水上石器時代住居跡6

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2018.10.31 水上石器時代住居跡6
 
敷石住居は、「円形平面に出入り口とされる長方形突出部の付いたいわゆる柄鏡形になるものが多い。竪穴壁面沿いまたは竪穴外に柱穴があり、円筒形の側壁の上に屋根をかけた形になると思われる。」のだそうです

それでは敷石住居跡は群馬県の他にはどこにあるのだろう?と調べてみたらたくさん出てきたのですが、その中に山梨県北杜市の金生遺跡がありました。
 
あちこちに復元されている縄文時代の住居は、どこでもみな↓のような地面に直接屋根を置いたような形になっていますよね。
 
縄文時代の住居 
イメージ 1

そういう住居しか見たことがなくて、縄文時代の住居というのはそういうものなのだと思い込んでいた私は、金生遺跡の復元住居に壁があるのを見て驚き、なぜここにだけ?と疑問に思ったことがあったのです。
 
イメージ 2
 
それでは、あの金生遺跡の住居は敷石住居だったのですね。当時はそういう知識が全くなかったので、なぜこの遺跡の住居にだけ壁があるのだろう?と疑問に思ったのですが、やっと理由が分かりました\(^o^)/。
 
改めて調べてみると、金生遺跡は気候が寒冷化し遺跡数も減ってきた縄文後晩期の遺跡で、38棟の住居址と5基の配石遺構が確認されており、住居址は縄文後晩期が中心で、竪穴式住居や敷石住居、石組住居などがあったそうですから、復元されていた3棟の壁のある住居は敷石住居だったのですね。
 
金生遺跡を見たのは2009年で、この時は、ずっと疑問に思っていた「長野県には海がないのになぜ小海線なのだろう?小海線の沿線にはなぜ海の付く地名が多いのだろう?ひょっとすると長野県には海があったのではないだろうか?」ということに関する手がかりを探しに八ヶ岳に行ってみようと思ったのですが、
 
その途中のやはり海のない山梨県の北杜市にも縄文の遺跡があることが分かったので行ってみたのです。でもこの時には、金生遺跡があったのが標高772mの高原だったので、ますます海との関係が分からなくなってしまったのですが<(_ _)><(_ _)><(_ _)>
 
当時はまだ「プレートテクニクス」という言葉さえも聞いたことがなかったので、高原なら海ではなく岩塩があったのかもしれないと思い直して八ヶ岳の資料館で聞いてみたのですが、そんなものはないし、聞いたこともないというお返事でした(T_T)
 
この問題がやっと解決したのは、2015年に「プレートテクニクス」を知り、「山中地溝帯」が海だったことが分かってからだったのですが、疑問を持ち続けていればいつかは謎を解く道筋を見つけられるようです\(^o^)/。「山や海の姿は変わらない」というのは根拠のない思い込みであって、長野にも山梨にも岐阜にも埼玉にも栃木にも海があったのです。
 
「縄文人は定住せずに狩猟採集生活をしていた」というのも、集落の遺跡を見れば誤った思い込みにすぎないようで、まだ発掘などが進んでいなかった時代に作られた説が、いまだに見直されることもなくそのまま教科書に載せられ信じられているということのようですね<(_ _)>。「教科書を疑え!」
 
一口に縄文時代と言っても、3~4万年(ひょっとするともっとずっと長く)続いていたのですから、その間ずっと同じだったはずはありません。ほんのここ2000年のことを考えてみても、2000年前には竪穴住居に住んでいた(?)日本人は、今は当時とは全く違う家や超高層マンションなど住み、全く違う生活をしているではありませんか(^o^)。変化は今よりゆっくりだったでしょうけれど縄文時代の人たちだって何万年もずっと同じ家に住み、同じことをしていたはずはありませんよね(^_-)
 
縄文人 実は多彩? 
イメージ 3

地域によって自然条件も手に入れられる食材も違っていたのですから、食生活や文化に地域差があったのは当然ではありませんか(^o^)
 
 
 
 
 

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