2018.10.30 水上石器時代住居跡5
敷石住居は縄文中期から後期にかけて期間や地域限定で作られたと記されていたのですが、本当にそうなのでしょうか?私は、群馬県で今月3か所も敷石住居跡を見てしまいましたし、同じようなものは他でも見たことがあるような気がするのですが(^o^)。
月夜野の郷土歴史資料館の近くにも「梨の木平敷石住居跡」がありましたし
月夜野郷土歴史資料館
梨の木平敷石住居跡
少し前に行った藤岡の鬼石にもありましたし・・・
鬼石の敷石住居跡
そこで、敷石住居ってどういうものなのか調べてみました。
「敷石住居は、床面の一部ないし全面に平らな石を敷いた縄文時代中期末から後期はじめに造られた住居で、関東・中部地方を中心に東北南部から北陸北部・東海東部にかけて分布している」のだそうですから、地域限定の特殊なものではないようで(^o^)、「円形平面に出入り口とされる長方形突出部の付いたいわゆる柄鏡形になるものが多い」のだそうです。
建築物には時代の流行というものがあるのですよね。マンションや建売住宅を見るとそれがよく分かるのですが、ウロコのような壁面に青いスペイン瓦(?)が付いていたり、壁面が茶色のタイル張りだったり、同じ頃に造られたものには材料やデザインや間取りに共通する特徴があるのです。
それは古代も同じで、縄文中期末から後期にかけての時期に敷石住居が作られていたのは「期間限定」だったのではなく、単にその時期に一般的だった(流行っていた)作り方だったということなのではないでしょうか(^o^)。新しい作り方の住居の方がこれまでの住居より居住性や使い勝手が良ければ、後から家を作る人達はみなそちらを採用したはずですから(^o^)。
縄文中期末から後期にかけての時期にあちこちで敷石住居が作られていたのはそれが理由なのではないかと思います。縄文後期頃からは弥生人が渡来し始めて家の作り方が変わったため、敷石住居は作られなくなったのかもしれませんし、西日本に敷石住居がないのは、西日本には弥生人が多かったせいかもしれません。
現在では、敷居住居は特殊なものや祭祀用のものではなく、「一定の時代と地域に限って存在する一般住居」と考えられているのだそうですが、東北・北陸・関東・中部・東海と広い範囲で発見されているのですから、「限られた地域」とは言えないと思うのですが、歴史学では、一度作られた「説」やそれに基づいて作られた説明版などは、訂正されることも見直されることもないようです。
自然科学ではたとえノーベル賞を受賞した理論であっても、異なった事実が分かればその時点で以前の理論は完全に否定されてしまうわけですが、
もともと実体がないうえ検証も実証もしない文系の「説」や「解釈」は見直されることも否定されることもないということが、『古事記伝』や「皇国史観」のような荒唐無稽な解釈がいつまでも生き残っている理由のようです<(_ _)>。
今日の朝刊に今年のノーベル生理学・医学賞を受賞された本庶先生が会見でおっしゃった「教科書を疑え」という言葉が大きな反響を呼んでいるという記事がありました。会見後、「教科書を読んで満足せず、興味を持って体験し納得することが大事」「自分の頭で考えることを放棄せず、突き詰めようと思う」というようなツイートが急増していたそうです\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/。
「明治以降思考を停止していた日本人」がやっと変わり始めて本来の論理性を取り戻しつつあるのかもしれませんね\(^o^)/。