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コメントへのお返事 手白香皇女の衾田陵

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2018.10.29 コメントへのお返事 手白香皇女の衾田陵

 
”縄文海進と山窩”への丁寧な回答・ご指摘ありがとうございます。ブログの中を彼方此方読ませて頂くと、とても幅広く研究なさっているのだなと感心致します。韓国ドラマ“帝王の娘スベクヒャン”を観たばかりだったので、手白香皇女(たしらかのひめみこ)の歴史探訪ブログの記述も気になりました。奈良の山辺の道にある衾田陵はとてもロマンを感じるものですから。 
2018/10/28() 午後 6:07 [ kojita ]
――・――・――・――・――・――
 
知らないことが出てくると「それ、なに?」と思って調べ、納得できないと「なんで?」と考えて納得できるまで突き進んでしまうので、研究というより好奇心の結果なのですが(^o^)
 
幸か不幸か古代史に関しては知らないことばかりで(^_^.)、調べてみると納得できないことや疑問に思うことが増えるばかりだったので、ここまで延々と謎解きを続けることになってしまい、調べることの幅が限りなく広がってしまったのです。
 
「帝王の娘スベクヒャン」をご覧になったのですか。私はまだ見たことがないので、あらすじを探してみたら、ドラマには東城王と後の武寧王が同時に登場しているようですね。
 
24代百済王となったのは「応神天皇(余昆)の次男の東城王(余牟大)」で、この東城王が暗殺された後、長男の余隆が兵と共に百済に送られて25代武寧王になったのですから、ドラマはかなり脚色があるようですし、登場人物やストーリーもどこまでが史実に基づいたものなのか分かりません<(_ _)>
 
けれど、この時代の百済では王が次々に暗殺されていたのは事実のようなので、その理由や、この時代の百済と新羅・高句麗・中国との関係や、王室内部や貴族間の権力争いなどの時代背景がこのドラマから見えてくるかもしれないと思って、見てみたいと思っていたのですが、放映中であることに気が付きませんでした。もう終わってしまったのですね(T_T)
 
ところで手白香皇女の衾田陵ってどんな古墳でどこにあるんだろう?と以前購入した『天理の古墳100』を引っ張り出して探したのですが載っていませんでした。そんなはずはない、と調べてみると「西殿塚古墳」という名前で載っていたのですが、古墳の大きさなどは書いてあるのに、何世紀に築造されたものなのかが記されていません。疑問に思って調べてみると、wikipediaによれば「3世紀後半(古墳時代前期前半)頃の築造と推定され、古墳時代最初期の箸墓古墳に後続する大王墓とする説で知られる。」のだそうです。
 
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けれど継体天皇は6世紀の天皇なのですから、その皇后が3世紀に造られたお墓に入っているはずはありませんし、その子とされている欽明天皇も6世紀の人なのですから、3世紀に死んでしまった人が欽明天皇を生んだはずもありませんよね(^o^)。それに継体天皇の墓(今城塚古墳)は大阪にあるのに、その皇后の墓が奈良の天理に造られたはずもありませんし。つまりこの古墳が「継体天皇皇后の手白香皇女の陵である」という宮内庁の治定は真っ赤なウソなのです。
 
でも明らかにウソだと分かっていても、これをウソだと認めてしまうと『記紀』を元に作り上げてきた学者さんたちの諸説やストーリーは全て崩壊してしまいますから、この古墳の築造年代はあえて書かないでおいたということでしょうか(^o^)
 
この古墳を無視することはできませんが、かといって「継体天皇皇后の手白香皇女の衾田陵」として載せれば、それは明らかにウソだと分かっていることを臆面もなく書くことになってしまいますから、苦肉の策として「西殿塚古墳」と言い換えて載せたということかもしれませんね(^_-)

宮内庁が「仁徳天皇陵」だとしている古墳の築造年代が『記紀』の記す仁徳天皇の在位年代や、歴代天皇の亡くなった順番と古墳の築造の順番が合わないために「大山古墳」と言い換えてごまかしているのと同じ姑息なやり方のようです<(_ _)>
 
 
 
 
 

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