2018.10.26 水上石器時代住居跡3
水上石器時代住居跡があるみなかみ町大穴が、当時海辺の舌状台地だったのであれば、利根川とその周辺の河岸段丘はその頃海だったということになるのですが、するとなぜ標高が565mもある所が海辺だったのかという疑問が湧いてきますよね。この遺跡は3500年前のものだそうですが、縄文時代は温暖で海進期であったとしても3500年前に海面が今より500m以上も高かったとは思えませんし<(_ _)>。
2000万年前には大陸の一部だった付加体が、大陸から剥がれ始めて日本列島ができ始めたのは1600万年前頃のようで、その頃の東日本や北海道は大部分が海で、たくさんの島に分かれていたようですが、その後活発な海底火山の活動や、噴出物の堆積によって陸地化していったようです。
さらに、東日本は日本海溝に沈み込む太平洋プレートに押し上げられて隆起していたようですが、300万年前頃にそれまで北に向かって沈み込んでいたフィリピン海プレートが沈み込む方向を北西に変えたために、東日本には東西圧縮の力がかかるようになって山脈ができて山国になったのだそうです。
3015mの立山や黒部ダムを擁する立山連峰と後立山連峰は、プレートの境目にマグマが溜まり、その熱で岩が軟らかくなった所に東西圧縮の圧力がかかって褶曲して3000m級の山脈になったのだそうですが、これらの山脈は、今も東西圧縮の力を受けて高くなり続けているのだそうです。
三国山脈やその周辺もこの東西圧縮によって褶曲して高くなっていったのでなないでしょうか。谷川岳は現在1977mですが、地図を見ると三国山脈の周辺には水上温泉や猿ヶ京温泉など夥しい数の温泉があるようですから、地下にはマグマ溜まりがあって、立山連峰と同じように岩を軟らかくしていて、東西圧縮の力を受けて高くなり続け、海辺だった大穴も565mまで高くなってしまったのではないかと思うのですが(^o^)。何といってもプレートの圧力とはすさまじいものでヒマラヤやアンデスを作ってしまったくらいなのですから。
というわけで、現在の地図では大穴が海の傍だったとはとても思えないけれど、実際に行ってみれば何らかの痕跡か考える手がかりが見つかるかもしれないし、資料館に行けばこの遺跡や付近の地形の変化に関する資料や地元の伝承のようなものがあるかもしれないと思って、行ってみたいと思っていたのですが(^o^)、見て分かったことはほとんどなく、資料館にもこの遺跡に関するものは何もありませんでした(T_T)
住居跡があったのは「みなかみ町大穴」だったのですが、大穴は水上歴史民俗資料館の管轄外なのか(?)行ったこともないし資料も展示も何もないとのことで、かろうじて↓の小仁田遺跡から石器が発見され、水上には先土器(旧石器)時代から人が住んでいたということが分かっただけでした<(_ _)>。
帰って来てから調べてみたら、この小仁田遺跡は地図には載っていませんでしたが、小仁田の地名は資料館の南にありました。でも、この3万年前の小仁田は標高480mくらいで、3500年前の大穴よりも低い所にあるのですよね。これをどう考えればいいのか分からないのですが、今はここまでしか分からないので、この件は保留にしておくことにします。