水上の石器時代住居跡があるところは、日本海からも太平洋からも遠く離れた山地の標高565mの所だったので、2012年にこの遺跡のことを知った時には、そこが海の傍だったとはとても思えませんでした。
でも、それならなぜそこに石器(縄文)時代の人が住んでいたのだろう?どうやってそこまで行ったのだろう?と不審に思ったのです。おまけにそこは、冬はスキー場になるほどに雪が積もる所のようですし。
けれど論理的に考えるなら、どこにでも自由に住むことのできた石器時代の人たちが、わざわざ手近で塩を手に入れることができない内陸の、冬の間は雪が多くて寒く食料も手に入れにくくなってしまう所や、移動に舟を使えずどこへ行くにも藪漕ぎをしなければならないような不便な場所を選んで住んでいたはずはないから、そこに石器時代の住居跡があるなら、そこに人が住み着いた頃にはそこは塩や食料が得やすく、冬も雪に閉ざされたりはしない温暖で豊かで暮しやすい場所で、そこに住み着いた人たちは、そこまで藪を漕いで道を作りながらやって来たのではなく舟でやって来たはずだと考えたのですが、2012年にはどうして水上の辺りが温暖だったのかが分からず、ましてや近くに海があったとも思えず、どう考えたらいいのか分かりませんでした<(_ _)>。
けれど2015年に「函館市南茅部地域では、縄文時代早期から晩期にかけて約7000年もの間、連綿と縄文文化が栄えていた」ということや、
日本で竪穴住居跡が最も多く見つかっているのは、函館どころかもっと北のオホーツク沿岸の常呂(ところ)町や標津(しべつ)町で、最古の環濠集落は北海道苫小牧市にある縄文中期の静川遺跡であるということを知って、
縄文時代(新石器時代)の北海道は、雪の降らない温暖で豊かでその時代の人が最も暮らしやすい場所だったことが分かりました。それなら当然縄文時代の水上も、今とは全く違って雪が積もることなどのない温暖で暮らしやすい所だったということになりますよね。
それが分かったことで、気温と食料の問題は解決したのですが、まだ生命に不可欠な塩と、どうやって内陸の山地にやって来たのかという問題が残っていました。けれどその後、大陸は移動していたというプレートテクトニクス理論を知ったことで、これにも解決の糸口が見つかりました\(^o^)/。
まだ、いつ頃までどこが海だったのかということははっきりとは分からないのですが、東日本は日本列島がユーラシア陸の東端からはがれた時にいくつもに割れて多島群になったようですから、縄文時代の人たちが船で水上にやって来た可能性は十分にあるようです。
現在は山奥で、スキー場になるほど雪が積もる場所であっても、縄文時代にもそうだったわけではないのですよね。『記紀』や「皇国史観」を信奉する神懸りの歴史学者さんたちは、「日本列島はイザナギとイザナミが産んだもので神代から変わらない」と考えているのかもしれませんが(^_-)、大地は6000年前にカミサマが作った物でも神代にイザナギとイザナミが産んだものなく、地形も気候も大きく変化していたのです。
約2億9900万年前から約2億5100万年前のペルム期には中国は赤道付近にあったようですから、中国の東端にあった日本も熱帯~亜熱帯だったことがあるのです。その頃の北海道は豊かな森林に覆われていて、それが北海道の石炭層になったのだそうです(^o^)。