今でも天皇制の存在意義や天皇の戦争責任を論議すると浅沼稲次郎や伊藤一長・長崎市長のように右翼に命を奪われる。日本史村の先生は賢いから黙りこくっているのが一番と考えているし、右翼が怖いのだと思います。北方謙三は中国歴史小説を書いているが、本当は日本を舞台とした古代の歴史小説を書きたかったそうだがこの人も右翼が怖いので出版社の編集者に薦められたが断念したそうである。この意味から、現在日経に執筆中の池澤夏樹のワカタケルは書き方によって心配ではある。
2018/10/9(火) 午前 1:06 [ kojita ]
やっぱり非論理的なつじつま合わせばかりしている日本史村の先生方は私より頭が悪いのではなく、ずっと頭がいいから古代史を訳の分からないもののままにしているということのようですね(^o^)。中学校の教科書にもあるような科学的知識が理解できず、物事を論理に考えることもできないような人が「教授」になれたはずはないと思ったので、↓には
羅山の判決にしても、本居宣長を始めとする『古事記』の解釈にしても、学者さんたちが本当に心からそう信じて書いたのか、何もかも分かったうえで現世に合わせて「曲学阿世」したのかは私には分かりませんけれど(^_-)。
と書いたのですが、どうも後の方のケースのようです。
今朝の新聞に「中国はどんどん安全ではなくなってきている」というコラムがあり、その中に「浮世離れしてみえる歴史研究者から・・・」という文言があったので「ン?」と思ったのですが、ごく普通の感覚や論理性を持った一般人は、「歴史研究者は浮世離れしている」と思っているようですね(^o^)。
浮世離れした歴史学者は「文献」という作り話を元に非論理的な歴史を作り、歴史小説家は歴史学者の作ったその歴史を元に人物像や魅力的なストーリーを作り、歴史学者はさらにその人物像やストーリーを歴史解釈に取り入れるという循環で私たちが教科書で教えられる歴史は創られていくようです(^o^)。
池澤夏樹氏の「ワカタケル」については、雄略天皇は架空の人物であり、その在位期間とされている456~479年頃に実際に在位していた大王は応神天皇(=倭王・武)であって、ワカタケルは倭王・武でも雄略天皇でもなく、応神天皇の孫の欽明天皇のことなのですが、小説は噓八百の作り話である『古事記』に沿って展開しているようです。
雄略天皇は『日本書紀』には「大悪天皇」と記されていて、司馬遼太郎著『街道をゆく』によれば、『日本書紀』での記述は「殺人の行跡に満ち、あとは性交についての露骨なことがらが多い」のだそうで、この小説もそのような露骨な場面と殺人から始まり、怪物や、初代天皇だというカミサマも出てきました。
『古事記』もイザナギとイザナミのそういう露骨なオハナシから始まっていましたが、つまるところ歴史家や小説家はそういうオハナシが大好きだということでしょうか(^o^)。
西洋絵画の女神がいつも全裸で描かれているのも同じで、人間同士の露骨な場面を書いたり、全裸の人間の女性を描いたりすると不道徳だとか退廃的だとかと非難されてしまうのでカミサマを方便に使ったのではないか、と私は疑っているのですが(^o^)。
それはともかくとしてこの小説を読んだ人は、日本という国はそのようにしてカミサマや怪物がらみで形成された国で、ワカタケルが雄略天皇になったのだから、雄略天皇は実在の天皇であり、倭王・武がワカタケルで雄略天皇なのだと思い込むのでしょうね。