京大(西洋哲学)出身の梅原猛は日本古代史三部作(水底の歌/隠された十字架/神々の流竄)を引っ提げて日本史村に挑戦状を突き付けたと自身が書いています。それでも日本史村は黙りこくって金持ち喧嘩せずの如く未だに相手にしてくれないそうです。小島毅は東大史学科の東洋史学(中国思想)出身で、日本史学の隣の教室なので、日本史村の本家は“物言えば唇寒し”の輩ばかりだが、少し外野の隣村になると発言はある程度自由になるようです。----
李氏朝鮮の儒教のお勉強は並大抵のものではなくて本場の中国を上回る程だったそうである。それと較べると日本の儒学者はレベルが低い“お頭(おつむ)が弱い”人が多かったそうである。-----
良心的と思える史学者の本を読むと、記紀の全てが嘘八百ではなくて、信用できるところはこの辺りだとか、辻褄合わせの論ではなくて、研究論文を元にして教えてくれていると思います。しかし、天皇陵を発掘調査でもしない限り、倭の五王の時代とかの研究は進みません。奈良時代だけは長屋王邸の発掘に拠る木簡の出土による文字情報の獲得により多くの論文が書かれたようです。続日本紀は信用されているようです。
2018/10/5(金) 午後 9:55 [ kojita ]
そういうことだったのですか。でもそれが「権威」というもので、都合の悪いものは無視することで「権威」を守っているということなのでしょうね(^o^)。反論すればさらなる反論が返ってきて荒唐無稽なつじつま合わせが露わになってしまいますが、黙っていればボロが出ることはありませんものね(^_-)。大部分の日本人は内容ではなく「肩書」を信じるようですから。
「続日本紀は信用されている」ということですが、文献はみな同じで、編纂を命じた人や書く人が自分たちに都合の良いように書いたものであって、自分たちに不都合なことを書いたはずはありませんし、不都合な部分があれば後からさらに編集したり削除したりしていたようですから、学者さんたちが崇める『記紀』を始めとした「文献」は、いつ、誰が、何のために、どんな立場で書いたのかをまず考える必要があると私は思います。史書にしても小説にしても、完全に中立の立場で書かれたものなどあり得ないのですから。
「天皇や自分たちの祖先は人類ではなく神である」などという荒唐無稽でありえないオハナシを「文献」として頭から信じるから、学者さんたちは非論理的な現実離れしたつじつま合わせをせざるを得なくなっているだけのことなのです(^_-)。
歴史書を書き換えることはさほど珍しいことではなかったそうで、たとえば「藤原種継暗殺事件で、着せられた冤罪に抗議の絶食をして餓死した早良親王」に関する記述が、(その冤罪を仕組んだ)桓武天皇や嵯峨天皇によって『日本後記』から編集・削除されていたことが平安後期の『日本紀略』という史料から判明しているそうです。
また、日本の儒学者の儒教のお勉強が李氏朝鮮に比べて適当だったのは“お頭(おつむ)が弱い”からではなく、権力におもねるために使える部分以外は不要だと思ったからでしょう(^o^)。一字一句違わず暗記するなどということは全くの無駄でしかありませんから、無駄なことはしないという意味では頭がよかったのではないでしょうか(^_-)。学んだ(覚えた)部分に関しては、最大限に有効利用していたようですしね。
私は、以前は歴史にはほとんど関心がなかったので、梅原猛氏の御著書も読んだことがありませんでした<(_ _)>。教科書にあった「和を以て貴しとなす」くらいしか知らなかった「聖徳太子」って本当はどんな人だったのだろう?と疑問を持った時、「学術的肩書」をお持ちの高名な学者さんであれば、本当のことを教えてくれるのではないかと思い、頑張って梅原氏の『聖徳太子』を読んでみたのですが、その結果ますます分からなくなってしまったので<(_ _)>、文献や学術的肩書に頼るのは止めて自分で考えてみることにしたのです(^o^)。
他人の机上の空論を読んでいるより、現地や現場を見て自分で推理し、真実を知る方がずっと面白いので、連休にはせっせと群馬県に出かけていたのですが、先日の台風の強風は群馬にも吹き荒れたようで、今回見に行った古墳の近くでは、たくさんの実をつけたカリンの木が二本、根こそぎ吹き倒されていました(T_T)