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学者さんたちの常識30 定恵と不比等は鎌足の息子である

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2018.9.27 学者さんたちの常識30 定恵と不比等は鎌足の息子である

 
『日本書紀』には 「(鎌足は)人となり忠正にして匡済(きょうさい)のこころあり」(まごころのある正しい人で、乱れを正し救済しようとするこころがあった)とか、「意気(こころばえ)高くすぐれ、容止(立ち居振る舞い)犯(おか)しがたき」人だったとかと記されているそうですが、実際の鎌足は大変な野心家で戦略家だったようで、早くから用意周到に天津族の王族との血縁関係を張り巡らせていたようです。
 
鎌足の妻の一人に「車持与志古娘(くるまもちのよしこのいらつめ)」がいるのですが、この「車持氏」というのは毛野国造になった崇神天皇の息子のトヨキイリヒコの子孫の「東国六腹朝臣(あづまのくにむつはらのあそみ)」のうちの一氏族で、「群馬・ぐんま」の名の元になった榛名山南東麓一帯の久留末(馬)郷(くるまのさと)・車評(くるまのこおり)を領する有力な王族だったようです。
 
車持神社
イメージ 1

車持神社由来碑  
イメージ 2

↑にもトヨキイリヒコとの関連が記されていましたが、群馬にはトヨキイリヒコの痕跡がたくさん残っているようです(^o^)
 
久留馬地区
 
イメージ 3

 
ツンドクのままになっていましたが、↓はこの時に買ってきた資料です(^_^.)

イメージ 4

 
また、鎌足の長子は定恵とされていますが、定恵母は軽皇子(孝徳天皇)の妻の一人で、定恵は軽皇子の子だったようですし、次男とされている不比等の母は中大兄の妻の一人の鏡女王で、不比等は中大兄の子だったようです。
 
学者さんたちの間では「定恵は鎌足の長子であったのに出家させられたのは謎だ」とされているようですが、定恵の出家と653年に10才で留学生として唐に送られたこと、12年後の665年に帰国するとすぐに殺されてしまったことの裏には、この出自と熾烈な権力争いが絡んでいたようです(T_T)
 
余談ですが、小説「ワカタケル」はまだ始まったばかりなのに、もう天皇が殺され、王位に野心を持つワカタケルは自分の同母の兄二人を殺してしまいました。この小説が下敷きにしている『古事記』のこの部分の記述はまったくの作り話なのですが、それにしてもこの時代は、こんな天皇殺しや兄弟間の王位を巡る殺し合いなどのオハナシが普通に作られて、それに対してだれも違和感を持たないような時代だったということなのでしょうね。
 
BS4で「太王四神記」が始まったのですが、これは「好太王」の時代を描くドラマだと聞いて私が初めて見た韓国歴史ドラマでした。高句麗の建国神話をベースにしていたので、歴史というより「歴史ファンタジー」のようだったのですが、それでも45世紀がどんな時代だったのかが分かってきて、好太王は374412年の人で崇神天皇と同時代の人であることから、『記紀』の神話の意味するものやその作り話の裏に隠されたこの時代の本当の歴史がこのドラマから透けて見えてきて古代史の謎が解けてきたのですよね。
 
ドラマの放送は2008年でもうすっかり忘れてしまったので、もう一度見てみようかなと思っているのですが、45世紀の時代背景や朝鮮半島の歴史を何も知らずに見た10年前とはまた違ったものが見えてくるかもしれません(^o^) 

台風24号は今年最強の台風だということで、その進路が心配されていましたが、沖縄から北海道まで列島を隈なく直撃縦断する日本にとっては最悪のコースになってしまったようですね(T_T)
 
 

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