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学者さんたちの常識29 藤原鎌足

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2018.9.26 学者さんたちの常識29 藤原鎌足
 
学者さんたちの常識では「中臣鎌足=藤原鎌足」のようで、教科書でもそう教えられましたが、中臣氏と藤原氏は全く別の氏族です。中臣氏は「神別氏族」ですからで国津族であり、藤原氏は「皇別氏族」で天津族なのですから。
 
『新選姓氏録』では「皇別」ではなく「神別」とされている中臣氏は、東征以前から鹿嶋の辺りを地盤としていた国津族であって、その一族は目端の利く(肯定的に言うなら情勢を読む感覚の鋭い)人たちだったようです(^o^)
 
鎌足の祖の神聞勝命4世紀末の天津族の東征に際して、最後まで抵抗していた東国諸国の中でいち早く天津族に寝返って崇神天皇の息子の神八井耳命(=タケミカヅチのミコト)の軍に下り、ミカホシノカカセオが率いていた東国軍を壊滅させることに貢献して天津族の支配層に入り込んだようです。

ミカホシノカカセオに関しては古代の地形から『記紀』の謎を解く」をご参照ください。
 
このあたりのことを『古事記』は、
 
崇神天皇の御世に大坂山に白妙の御服に白鉾を手にした神が出現し、わが前を治め奉らば天皇のしろしめす国々をおだやかにしましょうといわれた。天皇がどなたのいわれることかと群臣に問われると、大中臣神聞勝が、それは鹿島国に坐す天津大御神のおっしゃることですと答えたので、天皇は命に幣・太刀十口・鉾二枚・鉄弓二張など沢山の品を託して鹿島の神に捧げられた。神聞勝命は そのまま鹿島に止まり祭祀に奉仕することになった
 
と記しているようですが、これは、鹿島の神聞勝命が天津族に寝返って、その勝利に大きく貢献したことへの論功行賞として天津族の朝廷での身分と鹿嶋の領土を安堵され、多くの褒賞を貰って鹿嶋に戻ったということでしょう。そして、「三笠神」を祀っていた中臣氏の祖廟も、「表向きは天津族のタケミカヅチを祀る鹿島神宮」として安堵され、「三笠神」は元の神野から鹿島山の鹿島神宮に遷されて、今も本殿に一番近い場所に祀られています。
 
これが4世紀末から5世紀初めにかけての崇神天皇の時代のことで、こうして天津族の朝廷に足掛かりを作った中臣氏は、7世紀になると神聞勝命の子孫の鎌子(鎌足)が「王位に野心のある有力な王族」を探して接近し始め、王位からは遠い位置にいた中大兄に眼をつけてクーデターを持ちかけたということのようです。
 
『新鹿島神宮誌』によれば、649年に下総国海上国造の領地から軽野の南1里、那珂国造の領地から寒田の北5里が新たに中臣氏の鹿島の領地に神郡として与えられ、朝廷によって本殿が造営されて、以後20年ごとの本殿の建て替えが朝廷によって行われ、朝廷からは毎年「鹿島使い」が奉幣にやってくるようになったそうですが、これは、中大兄の王位簒奪のクーデターに貢献した鎌足と中臣氏に対する論功行賞ということでしょう。
 
新鹿島神宮誌 
イメージ 1

血統だけが王位に就く唯一の根拠だった時代に、継体天皇の子孫ではあっても直系ではなく、王位に就けるはずのなかった中大兄の王位簒奪に貢献して一等功臣となった鎌足本人には、朝廷の全ての貴族の頂点に立つ神祇官の地位と、摂津国の安威郷が食邑として与えられたということのようです。



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