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学者さんたちの常識28 阿武山古墳2

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2018.9.25 学者さんたちの常識28 阿武山古墳2
 
茨木市安威にある阿武山古墳からは鎌足のものと思われる人骨も出土していたそうです。
 
この古墳は、昭和9年(1934年)に京都大学の地震観測施設の建設中、土を掘り下げていて瓦や巨石につきあたったことから偶然に発見されたのだそうですが、内部には棺台があって、その上には、漆で布を何層にも固めて作られ外を黒漆・内部を赤漆で塗られた夾紵棺(きょうちょかん)があったのだそうです。
 
棺の中には、60歳前後の男性の、肉や毛髪、衣装も残存した状態のミイラ化した遺骨がほぼ完全に残っていて、鏡や剣、玉などは副葬されていなかったけれど、ガラス玉を編んで作った玉枕のほか、遺体が錦を身にまとっていたこと、胸から顔面、頭にかけて金の糸がたくさん散らばっていたことが確かめられたそうですが、京都大学理学部地震観測所と京都大学考古学研究室と遺跡を管理する大阪府との間で古墳を巡って対立があり、調査不十分のまま埋め戻されてしまったのだそうです<(_ _)>
 
その後1982年に、埋め戻す前に撮ったエックス線写真の原板が地震観測所から見つかって、被葬者は腰椎などを骨折する大けがをしていたこと、治療されてしばらくは生きていたものの、寝たきり状態のまま二次的な合併症で死亡したこと、金の糸の分布状態からこれが冠の刺繍糸だったことなどが判明し、この冠は当時の最高級の技術で作られた金糸を織り込んだものである事から、当時の最高冠位である織冠であると思われ、それを授けられた人物は、史上では百済王子の余豊璋を除けば大織冠の鎌足しかいないこと、エックス線写真の分析結果が落馬後に死去したとされている鎌足の死因と一致することから、被葬者はほぼ藤原鎌足に違いないと考えられているそうです。
 
病と称して神祇伯任命を辞退した中臣鎌足が隠居した摂津国三島の別業とはこの安威郷のようですし、安為神社は式内社だそうですし、夾紵棺は当時大王(天皇)や皇太子などの王族にしか使われていなかった最高級の棺なのですから、安威郷の7世紀の古墳から金糸の入った職冠をかぶり、夾紵棺に納められていた60歳くらいの男性の遺体が出土していたのであれば、論理的には該当する被葬者は鎌足本人以外の人ではあり得ないと私は思います(^o^)
 
天武天皇の夾紵棺(復元) 
イメージ 1

安為神社の東に隣接する大念寺の開基は、鎌足の長子の定恵だと伝わっていて、安為神社と大念寺の裏山の尾根一帯には約20基の安威古墳群が存在するそうです。
 
それらの古墳は多分、中大兄のクーデターで一等功臣となって貴族の頂点に立つ神祇官となった鎌足の子孫の「大中臣氏」のお墓なのでしょうね。 





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