2018.9.24 学者さんたちの常識27 阿武山古墳
『日本書紀』が「大化の改新」と騙った中大兄のクーデターへの貢献で、鎌足は論功行賞として大阪府茨木市大字安威に領地を貰ったようです。安威にある「安為神社」は鎌足の創建と伝えられているそうですから、これは、鎌足が自分の領地に造った祖廟なのではないでしょうか。祭神は『古事記』で鎌足の祖先だということにした「天兒屋根命」のようですし(^o^)。
学者さんたちは、誰でもどこにでも勝手に巨大な古墳(墓)を造れたと思っているようですが、古代から現代まで(少なくてもバブルが崩壊して土地神話が崩壊するまでは)、財産とは土地のことであって、例え5㎝、10㎝であっても境界を争っていたくらいなのですから、自分の土地(領地)に他人の巨大な墓など造らせたはずがないではありませんか(^o^)。
宮にしても庭にしても墓にしても、他人の土地(領地)に作ることなどできたはずはないのですから、ばかばかしいほど大きな墓を造ることができたのであれば、その一帯はその被葬者本人の領地だったということなのです。
甘樫丘の麓で発見された大規模な石敷きの遺構は、もしも学者さんたちが信じているように「舒明天皇が実在した」としても、舒明天皇の墓である可能性は絶対にないのです。なぜなら、そこに住んでいたのは舒明天皇ではなく、「天皇のように振る舞っていたという(実際に天皇だったのですが)」という蝦夷と入鹿だったのですから(^o^)。
ですから鎌足の墓は、子孫によって鎌足の領地であった安威に造られたはずだと考えたのですが、2012年に行ってみた「大職冠神社」は鎌足の祖廟でも鎌足を祀る神社でもありませんでしたし、江戸時代に鎌足の墓とされた「将軍塚」も鎌足の時代のものではありませんでした。
ところが阿武山古墳は鎌足の領地の安威にある古墳で、安威川を挟んで安為神社の北北西にある阿武山の山頂にあるのですから、この古墳が鎌足の墓である可能性は非常に高いと思われます(^o^)。
ところで、連休中は群馬に出没していたのですが、群馬は行くたびにいろいろ発見があって面白いのですよね。今回もたくさんの発見がありました\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/。
先日新田の荘を継いだ「新田の義貞」は「新田の義重」の嫡流だったのだろうと書きましたが、そうではなかったことも分かりました。
義貞は、上野国碓氷郡里見郷を領して「里見の義俊」となった義重の3男の義俊の子孫で、幼少時は群馬県高崎市下里見町字古城にあった「里見城」で育ったのだそうですから、元は「里見の義貞」で、長じてから新田の宗家の養子になって「新田の義貞」になったようです。
260年続いたこの高崎の里見城は、武田信玄に攻められて1566年に落城してしまったそうですが、南総の里見氏もこの高崎の里見氏の一族なのだそうです。
千葉県市川市国府台に里見公園があって、「国府台は北総なのになぜ?」と疑問に思っていたのですが、ここは、北条氏康との「国府台合戦」で里見義弘が陣を敷いて大敗し、5000人もの戦死者を出した場所だったのだそうです。
夜泣き石
この夜泣き石には「永禄7(1564)年に里見・北条の合戦で戦死した里見広次には12~13歳になる美しい姫がいて、父の霊を弔うためはるばる遠い安房の国から国府台を訪ねてきたが、身も心も疲れ果ててそばにあった石にもたれて弱いかすかな声で父の名を呼びながら幾日か泣き続け、とうとう息が絶えてしまった。それ以来、この石から夜になると悲しい声が聞こえてきた」という伝説があるそうです。