2018.9.18 学者さんたちの常識24 藤原京
「徳川」はどこにあるのだろう?と調べてみたら、世良田東照宮の南西の早川の北岸に「徳川町」があり、ここに徳川東照宮がありました。そこが徳川の領主になった「新田の義重」の息子の「徳川の義季」の館跡なのだそうです。
世良田東照宮
八幡太郎源義家の長男の義親の曾孫が源頼朝で、三男の義国の長男が「新田の義重」であり、義重の8世の孫が「新田の義貞」で、義重の弟の義康は足利を領して「足利の義康」になり、その8世の孫が「足利の尊氏」なのだそうです。
義家―義親―為義―義朝―頼朝―頼家―実朝(1192~1219)
|―〇
|―義国―義重(新田氏)・・・・・・新田義貞(1301~1338)
|―義康(足利氏)・・・・・・足利尊氏(1305~1358)
ということになり、義貞は義重の嫡流、尊氏は義康の嫡流で、嫡流ではなく新田荘を継げなかった義季は徳川を領して徳川氏になったということになりますね。つまり新田氏・足利氏・徳川氏という氏族が初めからいたわけではなく、名前は違ってもみな一族であり、義家の子孫で「本姓(出自)・源」だということなのです。
鎌倉幕府を開いたのは源頼朝、滅ぼしたのは新田義貞・足利尊氏ですから、結局、義家の子孫が開いた幕府を義家の子孫が滅ぼしたということになるようです。
同じ頃、八幡太郎源義家の弟の新羅三郎源義光は、常陸介になって常陸国に拠点を置き、その長男の義業(よしなり)は佐竹郷を領して「佐竹の義業」になり、3男の義清は武田郷を領して「武田の義清」となり、それぞれ佐竹氏・武田氏の祖となっていますから、佐竹も武田も新田も足利も徳川も「姓」ではなく、領地の地名なのです。
それなら、「藤原の不比等」の「藤原」も、姓ではなく地名だったのではないか?と考えたのですが、やはり藤原も天智天皇に与えられた「姓」ではなく、地名だったようです。
そこに造られた都を、教科書では「藤原京」と教えられたのですが、この都は『日本書紀』には「新益京(あらましのみやこ)」と記されていて、「藤原京」という都はなかったようです。『日輪の賦』でも「藤原京」ではなく「新益京」が使われていましたが、それならなぜこの都は教科書では「藤原京」になっているのでしょうね?
「新益京」にあった宮は「藤原の宮」と呼ばれていたそうですから、そこは「藤原」という地名だったのだろうと思いますが、「新益京」は、その「藤原の宮」を中心にして造られていたのだそうです。「藤原京」という名称は近代に作られた学術用語だそうですから、学者さんたちが「藤原の宮を中心として造られた新益京は、藤原京だと考えてよい」としてしまったということなのではないでしょうか。
この「新益京(藤原京)」が短期間で捨てられてしまったのは、湿地で水はけが悪かったから」だということから推して、「新益京」という不自然な名前は、「新田荘」と同じように、「湿地で荒地だった藤原の地を拓いて新しく造った都」という意味なのかもしれませんね。
ネコビタイ便り
赤と白(リコリス・アルビノ)のヒガンバナは彼岸前に咲いてしまいましたが、今年はピンクのナツズイセンは1本だけ、青みがかったピンクのリコリス・スプレンゲリーは1本も咲かず、めったに咲かない黄色のリコリス・オーレアが6本も出てきています。今年の天候不順と関係があるのでしょうか?