2018.9.20 学者さんたちの常識25 「鎌足は藤原氏」って本当?
「大化の改新の功臣だった鎌足は、死の床で天智天皇から藤原の姓を賜った」というオハナシを信じる学者さんたちの間では、「藤原氏は中臣鎌足から始まった」ことが常識になっているようですが、「古代の地形から『記紀』の謎を解く」に書いたように、鎌足は「藤原氏」になっていませんし、その子孫たちも誰も「藤原氏」にはなっていません。
鎌足の本貫の地である鹿嶋の鹿島神宮の宮司は、今に至るまで中臣氏の子孫の「中臣姓鹿島氏」ですし、剣聖・塚原卜伝を出した鹿島氏も藤原氏ではなく、平国香から始まる常陸大掾氏の子孫の「平姓鹿島氏」です。
藤原氏になったのは不比等とその子孫たちだけなのですから、藤原氏は「学者さんたちの常識」のように「中臣の鎌足」から始まったのではなく、「藤原」に宮を造った「藤原の不比等」から始まったのです。
この時代に「姓(せい)」はなかったのですから、天皇から賜ったとすれば「姓」ではなく「藤原」という地名の領地であって、貰ったのは鎌足ではなく「藤原の不比等」となった不比等でしょう。鎌足自身は、『日本書紀』が「大化の改新」と騙った中大兄のクーデターでの論功行賞として、大阪府茨木市大字安威に領地を貰ったようですし、本貫の地である鹿嶋には「神領」として多くの領地を貰っています。
自らは働かず生産もしない搾取階級である貴族の財源は領地であり、その領地や領民から搾り取ることのできる物だったのですから、実利の伴わない名前など何の意味もなく、褒賞として与えるものでも貰って感謝するようなものでもなかったのではないでしょうか(^_-)。
これはその後もずっと同じで、戦国時代の武士が必死で戦ったのも領地を得るためであり、そうして得た領地を「一所懸命」の文字通り命懸けで守ったのですが、武士に土地を取られた後の天皇家や貴族たちは、領地と領民という収入源を失って逼迫していき、応仁の乱以降は貧窮の極みになっていたそうです。
そのため系図を売ったり、猶子や養子や養女にすることで名前や出自を貸して対価を得たり、莫大な献上金と引き換えに関白や征夷大将軍などの官位を与えたりするようなことが行われたのだろうと思いますが、これは、名前や出自は持っているけれど収入源の無い天皇家や貴族と、「源・平・藤・橘」の出自や官位が欲しい武士との利害が一致したということなのでしょうね(^o^)。
秀吉は藤原氏の猶子となって「本姓・藤原」となり関白になったのですし、家康は新田氏の系図を買って「本姓・源氏」となり征夷大将軍になったわけです。
↑のパネルによれば、天皇家から「征夷大将軍」の官位を買った家康は、次には後水尾天皇という天皇を作ったようですね。
黄色のヒガンバナ(リコリス・オーレア)が咲きました。
大室古墳群では桜の木に付いていたヤドリギを探したのですが見つからなくて、代わりに本体よりもヤドリギの量の方が多い大木を2本見つけました(^o^)。遠目には普通の木に見えますが、色の薄い所は全部ヤドリギなのです。
この7年の間に大量のヤドリギに養分を吸い取られて、桜は枯れてしまったのかもしれませんね(T_T)。