2018.9.17 学者さんたちの常識22 『記紀信仰』2
『日輪の賦』は小説(=フィクション)ですから、文句を言う筋合いではないのですが、pcat2sさまがおっしゃるように、確かに「ツッコミどころ」はたくさんあるようです(^o^)。
あれ?弓削皇子って謀反を起こして殺されたんだったっけ?と思ったのですが、この部分はフィクションですね(^o^)。弓削皇子を射殺した忍裳(おしも)は作者の創造した人物のようですし、弓削皇子を担いで謀反を起こそうとした多治比嶋・安倍御主人は弓削皇子と同じ年に死んだのではないようですから。
でも、小説はそれでいいのでしょうね。きっちり検証して事実だけを述べたのでは誰が書いても同じになってしまって、面白い小説にもエンターテインメントにもならないわけですし(^o^)。
ほとんど古代史の知識のなかった私が、古代史に興味を持ち始めて何冊か手に取ってみた時疑問に思ったのは、歴史小説と歴史解釈本はどこが違うのだろう?ということでした。
どちらも噓八百の『記紀』を元にしてオハナシ(歴史)を作っているのですから、例えば、「天智天皇の弟が壬申の乱を起こし、甥の大友皇子から皇位を奪って天武天皇になった」というオハナシになっていることに変わりはないわけです。それならその結論に達するまでの過程が納得できるかできないか、面白いか面白くないかの違いだけなのではないかと思ったのです(^o^)。
そうであれば初心者は、つじつま合わせばかりで面白くなく、納得もできない歴史解釈本や研究書を読むより、歴史小説を読むか、漫画やドラマを見る方がずっといいと思ったのですよね(^_-)。疑問に思ったところや分からないところは調べることができますが、何も知らないと疑問も持てないわけですから。
この小説では、大伴御行・多治比嶋・安倍御主人は律令作成に反対して讃良大王(持統天皇)に敵対していたという設定になっていましたが、この3人はみな壬申の乱の功臣で、天武天皇に引き立てられて重臣になった人たちのようですし、中でも大伴氏は応神天皇以来の忠臣で、一族が壊滅状態になるまで藤原氏に目の敵にされていたのですから、実際は讃良大王派だったのかもしれません。
この時代に実際に実権を握っていたのは不比等だったようですから、この3人は讃良大王に敵対していたのではなく、不比等のやり方に反対していたのかもしれませんね。実際に天武朝以来の重臣であった大伴御行(701.2)・多治比嶋(701.8)・安倍御主人(703.5)が相次いで世を去った後は、不比等と藤原4兄弟の天下になったようですし。
ちなみに弓削皇子が亡くなったのは、(ウソを書いたのでなければ)699.8だそうですが、この時には有力な後継候補だった大津皇子(686)・草草壁子(689)・高市皇子(696)はすでに亡くなって(多分殺されて)しまっていたのですよね。そして703年までには天武天皇以来の重臣たちもみな亡くなってしまっているのですから、見方を変えると、全く別のストーリーが見えてくるのではないでしょうか。
ホームズも「全く明白にある一つのことを示しているように思える時でも、ちょっと見方を変えると、同じように決定的な感じで、まるで異なることを示しているように見えるものだ。」「どんなときにも、ほかの可能性を考えて、そっちの備えも固めておくべきなんだ。」と言っていましたが(^o^)。
群馬でも、もうヒガンバナがたくさん咲いていましたが、大室古墳群の辺りはもう少し後のようです。2011.10.2に初めて行った時には水田の縁を朱色に彩っていた花の量に驚いたのですが、減ってしまったのでしょうか?それともこれから出てくるのでしょうか?
2018.9.16
2011.10.2