2018.8.3 「金印・志賀島・阿曇族」56 宮地嶽古墳44 『記紀』は「ウソばっか」14
なぜ韓国歴史ドラマを見ていたら古代史の謎が解けたのかというと、天津族は弥生時代に朝鮮半島から渡来してきた人々で、朝鮮半島でのやり方をそっくり持ち込んでいたからです(^o^)。学者さんたちは、「日本人」は固有の民族で、天津族は天からやってきたカミサマの子孫だと信じ切っているようですが。
ところで最近、宗像氏と呉国との関係から孫子とその時代に興味を持ち、ちょっと中国の歴史に関する本を読んでみたら、朝鮮半島のやり方は中国から持ち込まれたものだということが分かりました。人類の拡散とその移動経路を見れば、制度ややり方が人の移動に伴って中国から朝鮮半島に持ち込まれていたのは当然なのですが(^o^)。
例えば後宮の構成や序列なども、時代や王朝によって少しずつ違いはあっても基本的には中国の制度に倣っていたようです。
秦では、王妃・夫人・美人・良人・八子・七子・・・・
後漢では、貴人、美人、宮人、采女
朝鮮では、王妃、嬪、貴人、昭儀、淑儀、・・・・
日本では、皇后、妃、夫人、嬪・・・・
というように。
「姉妹で同じ王に嫁ぐ」というやり方も、その他もろもろの制度と同じように、中国で商(殷)王朝の頃に始まったもののようで、血統がすべての根拠だった時代には、王の仕事は子供をたくさん作ることであり、正夫人として王に嫁がせる娘には、その娘に子供ができない場合に備えて妹や姪など複数の娘を付き添わせていたそうで、正夫人に子ができず付き添った娘が子を産んだ場合は、その子を正夫人の養子としていたのだそうです。
すると、天武天皇に嫁いだものの若くして亡くなってしまった大田皇女は、体が弱かったので妹の讃良皇女が付き添って一緒に嫁いできたということかもしれませんね。
「嫁して三年、子無きは去れ」などという言葉もあったように、女が嫁ぐのは子を産むためであり、王家に嫁いだ娘たちは、実家の男たちが権力闘争に加わるための「王の子」を産むために嫁がされていたということのようですね(T_T)。
競って娘を後宮に送り込んでいたのはなんのためだったのか、後宮とはどんなところだったのか、ドラマを見ていたらよく分かったのですが、政敵を排除するためにはどんなことをしていたのかもついでに分かってしまい、中大兄や不比等や藤原4兄弟や藤原氏全盛時代に次々に起きていた様々な陰惨な事件の裏にあったものまで見えてきてしまったというわけなのです。
この時代が「平安」とは裏腹な、怨霊が跋扈し百鬼が夜行する闇の時代だったのはそのためであり、怨霊や夜に彷徨う百鬼は、中大兄や藤原一族に無残に殺された人たちだったのです。
こんなことが分かってきてしまったのは、ホームズが言っていたように、「千件の事件を研究すれば、千一件目の事件の謎が解けないことの方が不思議なくらいだよ」ということなのでしょうね。そんなことを知りたくて謎解きを始めたわけではなかったのですが<(_ _)>。
ところで、歴史学者さんたちが世界史とは全く整合性のない矛盾だらけのつじつま合わせばかりしてきたのは、国内だけでしか通用しない元号で歴史を考えてきたのが一因なのではないかと思い、今年で「平成」が終わって元号が変わるとますます不便で分かりにくくなるから、西暦を使ってほしいと思っていたのですが、世の中は徐々にそういう方向に動き始めてきたようです\(^o^)/。