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「金印・志賀島・阿曇族」50 宮地嶽古墳38 『記紀』は「ウソばっか」8

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2018.7.28 「金印・志賀島・阿曇族」50 宮地嶽古墳38 『記紀』は「ウソばっか」8

 
中大兄がクーデターで大王・入鹿を倒した乙巳の変(本当は645年ではなく649年ですから「己酉の変」)では中大兄の義父の大友氏が、大海人皇子が大友皇子を倒した壬申の乱では大友皇子側は皇子の祖父の大友氏が、大海人皇子側は皇子の義父の宗像氏と海人族が兵力の中心だったのではないでしょうか。
 
血統だけが身分の根拠だったこの時代に、王家に生まれなかった人や不比等のように系図上は王家の子弟になっていなかった人が王位に近づくには、王の血を引く娘婿を王(天皇)にするか、娘を通して得た王の血を引く男孫を王(天皇)にするしか方法がなかったわけですから、そのために皇子の義父や祖父の一族が兵力の中心となって戦ったのだろうと思います。

そして、戦う代わりにその王の血統をフル活用して王(天皇)家を乗っ取ろうとしたのが不比等から始まる藤原氏だったのです。
 
『古事記』が作られたのは天武天皇が亡くなった後で、完成したのは712年ですから、この頃の王位争いは崇神天皇の血を引いているか応神天皇の血を引いているかが正当性の根拠であって、アマテラスの子孫かどうかではなかったのです。アマテラスはまだ作られていなかったのですから(^o^)
 
『日本書紀』が完成したのは『古事記』の完成の8年後の720年ですから、アマテラスはすでに作られていたわけですが、672年の壬申の乱の時に大海人皇子がアマテラスに祈ったとか、アマテラスが天から姿を現して大海人皇子の味方をしたとかというのは大ウソです。NHKの「歴史秘話ヒストリア」や、『天上の虹』ではそういうオハナシになっていましたが(^o^)
 
血統を通して王(天皇)家になることを目論んだ不比等は、天武天皇が亡くなった後、すでに妻や子のいた天武の皇子たちを退けて、まだ15歳だった草壁皇子の遺児の軽皇子(文武天皇)を強引に天皇にしてその後宮に自分の娘の宮子を入れ、宮子が男児を生むと、「夫人」の宮子より上位の「妃」であった石川刀子娘と紀竈門娘を謀略で陥れて降格させ、石川刀子娘の生んだ二人の皇子を臣籍降下させることで王位継承権を失わせて宮子の生んだ首皇子を皇太子に立て、その首皇子の後宮に自分の娘の光明子(安宿媛)を入れて、自分の娘と自分の孫の子である男児(基王)を得たのです。
 
ちなみに不比等の孫である首皇子(後の聖武天皇)と娘である安宿媛(後の光明皇后)は同じ年でした。
 
そして、不比等の息子の藤原四兄弟は、不比等の娘で系図上は王族ではなかった安宿媛を強引に皇后にすると、生後間もない基王を前代未聞の皇太子に立て、これで王(天皇)家乗っ取り計画は完成するはずだったのですが、この赤子は生後一年で亡くなってしまい、その後光明子が男児を生むことができなかったため、この乗っ取り計画は水泡に帰してしまったのです。

けれどその後の藤原氏は、天皇の後宮に一族の娘たちを次々に送り込むことで藤原の血を引く天皇を作り続け、外戚として絶大な権力を握り続けたのですよね。

乗っ取り計画と並行して不比等は、天皇はアマテラスの子孫であって神であるからアマテラスの子孫以外の者は天皇にはなれないとする「神話」の編纂を進めていました。つまり、自分の孫であり曾孫でもある基王の子孫以外は天皇になることはできないという「神話」を作ることで他氏族の王位争いへの参入を断ち、未来永劫自分の子孫以外の者が天皇になれないようにしたのですが、これが712年に完成した「ウソばっか」の『古事記』なのです。 
 
 

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