Quantcast
Channel: 歴史探訪
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1389

金印・志賀島・阿曇族」49 宮地嶽古墳37 『記紀』は「ウソばっか」7 

$
0
0

2018.7.27 「金印・志賀島・阿曇族」49 宮地嶽古墳37 『記紀』は「ウソばっか」7 

 
私が寝屋川に行ったのは、『日本書紀』が「皇極・斉明天皇」になったことにしている「天智の母の宝皇女」の、最初の夫だった「高向王」の高向とは河内長野の高向のことなのではないかと考え、2012年に高向に行ってみようと思った時、大阪の地図を見ていて、寝屋川にも「太秦」があってそこに秦河勝のお墓があることを知って興味を持ち、難波宮跡から東高野街道で高向に向かう前に寝屋川に回ってみたのです。

寝屋川市川勝町の「伝・秦河勝の墓」
イメージ 1
 
東高野街道沿いには興味深いものがたくさんあったので、あれこれ調べたりしているうちに、この時の大阪探訪記は高向まで行きつかないうちに途中から別のことを考え始めてしまったのですが(^_^.)
 
この時は、ここでは秦河勝の墓を探すだけの時間しか取れなかったのですが、太秦の辺りは地形も地名も面白く、後で調べてみたら古墳や遺跡などもたくさんあってとても歴史の古い所のようでした。高宮神社の辺りは街道の交わる交通の要衝だったようでしたし。
 
秦町・川勝町・太秦などの地名があり、秦河勝の墓と伝わるものや太秦寺があったことなどから見て、ここは京都に進出する前の秦氏の本拠地だったようですし、讃良という地名や、さまざまな古墳や遺跡があるらしいことからみても、余昆(応神天皇)が渡来してきた頃から飛鳥・奈良鳥時代にかけての歴史がぎっしりと詰まっているようなので、改めてじっくりと探訪してみたいものです。鉢かづき姫があちこちに立って歴史案内をしてくれる「ねや川文化と歴史のみち」もあるようですし(^o^)
 
高宮神社の先に「高宮廃寺跡」があったのですが、その時はそこまで行く時間がなかったので今地図で場所を確かめてみたら、高宮廃寺跡の近くは「高宮遺跡」もあったようです。
 
以前、全国にある「廃寺跡」というのは、国分寺を建立する際に廃された郡寺の跡なのではないかと推理し、実際にいくつかの廃寺跡と郡衙跡の位置関係をここまでに確認してきたので、この廃寺の近くにある「高宮遺跡」も郡衙跡なのではないかと思い、調べてみました。
 

高宮遺跡は廃寺の西の畑地にあり、ここからは縄文前期から飛鳥時代・白鳳時代にかけての遺構や遺物が発見されていて、「なかでも、およそ1300年前の飛鳥時代から白鳳時代に属する多数の掘立柱建物跡は、長く続く方形に区画された柵列(さくれつ)の内側に並び、外側には約4メートル四方の小さな竪穴住居跡が並んでいた」のだそうです。この区画された内側に並んでいた建物は郡衙の倉庫群で、やはりここには讃良郡の郡衙があったのではないでしょうか(^o^)

 
寝屋川市のH.Pには「この丘の上に生活を営んだ古代氏族がまもなく氏寺として高宮廃寺(白鳳時代創建)を建立したものと思われます。」と記されていましたが、「氏寺」として造られた寺は、その氏が没落して無住になり寂れて朽ちることはあっても、人為的に「廃寺」にされることはなかったはずですから、全国にある「○○廃寺跡」は個人的な「氏寺」ではなく、郡衙ごとに造られていた官製の郡寺だったから一斉に廃寺にすることができたのだろうと思います。
 
「ここに住んでいた古代氏族」とは、秦氏で、秦氏の氏寺は「高宮廃寺」ではなく、「太秦寺」だったのではないでしょうか。

常陸の那珂郡衙の近くで見つかった那珂郡の郡寺・台渡里廃寺跡
 
イメージ 2

イメージ 3
 
イメージ 4
 
イメージ 5

 
 

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1389

Trending Articles