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「金印・志賀島・阿曇族」42 宮地嶽古墳30 金錯銘・銀錯銘の鉄剣3

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2018.7.19 「金印・志賀島・阿曇族」42 宮地嶽古墳30 金錯銘・銀錯銘の鉄剣3
 
福岡県埋蔵文化センターの資料によれば、古墳時代の銘文をもつ刀剣はこれまで全国で 7 例出土しているそうで、福岡県教育委員会の「日本出土銘文大刀剣一覧(古墳時代)」では、稲荷山古墳の金錯銘鉄剣は471年、江田船山古墳の銀錯銘鉄剣も同様に5世紀後半、石上神宮の七支刀369年に造られたものとされていましたが、これは違うと私は思います。
 
稲荷山の金錯銘鉄剣、江田船山の銀錯銘鉄剣、元岡・桑原遺跡群の「庚寅銘大刀」は531571年の欽明天皇の時代に作られたものであり、石上神宮の七支刀は、その銘文に百済王が造らせ倭王に贈ったことが記されていますから、造られたのは502年以降でしょう。
 
この七支刀を造らせた百済王は502年に25代百済王に即位した応神天皇の長子の斯麻(武寧王)で、世子はその子で応神天皇の孫である余明(後の聖明王)であり、贈られた倭王は「倭王・武」を名乗っていた父の応神天皇であろうと思います。百済王から倭王に贈られたこの七支刀の銘文にわざわざ「世子」と入れられているのは、その世子が倭王の孫だったからでしょう。
 
武寧王は、しばしば漢江流域に対する高句麗・靺鞨の侵入を撃退し、512年には高句麗に壊滅的打撃を与えるなど百済中興の祖とされる英明な王だったようですが、応神天皇の長子でありながら母が天津族の王族ではなかったために応神天皇の跡を継いで倭王になることができなかったのだとすれば、天武天皇の長子でありながら母が海人族出身であったために天武天皇の跡を継ぐことができなかった高市皇子とよく似ていますね。
 
石上神宮の七支刀が369年に造られたものではあり得ないことについての推理は↓にあります。
 
七支刀と共に贈られた七子の鏡は、宮内庁が「仁徳天皇陵」に治定している大山古墳(実際は応神天皇陵)に副葬されていたようですが盗掘されて流出し、1906年(明治39年)に京都で、当時ボストン美術館の中国・日本美術部勤務であった岡倉天心によって購入され、現在はボストン美術館に収蔵されているそうです。
 
この時七子の鏡は副葬品とされたのに七支刀が副葬されなかったのは、その銘文に「後世にも永くこの刀を伝え示されんことを」と刻まれていたからであろうと思います。この七支刀は「呪力を持つ守り刀」として応神系王族に代々引き継がれていたか、神社に奉納されていたのではないでしょうか。
 
石上神宮は応神系王族の祖廟ではありませんから、この七支刀がなぜ今石上神宮に収まっているのか理由は分かりませんが<(_ _)>
 
そういえば、石上神宮の由緒には「平国之剣(ひらくにゆきけん)」と「天十握剣(あめのとつかのつるぎ)」のことが記されていて、七支刀のことは記されていませんでした。なぜここにあるのか、神宮でも分かっていないのかもしれませんね(^_-)
 
石上神宮由緒
イメージ 1

 
楼門
イメージ 2

 
拝殿
イメージ 3

  
 

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