稲荷山古墳の金錯銘鉄剣、江田船山古墳の銀錯銘鉄剣が作られたのは6世紀で、そこに刻まれた「ワカタケル王」は架空の雄略天皇ではなく、531年に即位した欽明天皇です。
また、この5月の福岡探訪の時に行った福岡県埋蔵文化センターで初めてその存在を知った「庚寅銘大刀」も金錯銘の入った鉄剣だったのですが、この鉄剣は、元岡・桑原遺跡群の古墳から出土したものだそうで、その銘文には「ワカタケル王」の名は刻まれていませんでしたが、欽明天皇が在位中の570年が庚寅の年に当たるようですから、これも欽明天皇の時代に造られたものでしょう。
応神天皇の孫の欽明天皇の時代には、武寧王の息子でやはり応神天皇の孫であった百済の聖明王から仏教やそれにまつわる様々な技術者が送られてきていますから、その時に金や銀で銘文を入れる技術や技術者も入ってきて、有力な王族の間で鉄剣に金錯や銀錯の銘文を入れることが流行ったのかもしれません(^_-)。
応神(余昆)―武寧王(斯麻・余隆)―聖明王(余明)
|―ウジノワキノイラツコ―欽明
24代百済王(東城王)になった次男の余牟大と25代百済王(武寧王)になった長男の余隆の母は余昆が百済から伴ってきた妻で、ウジノワキノイラツコの母は日本に来てから娶った妻だったようで、『古事記』はその名を近江の木幡村の宮主矢河枝比売(みやぬしやかわえひめ)と記しています。
百済はこの頃王位争いが激しく、22代文周王が暗殺された後13歳で即位し、15歳で亡くなった三斤王には子がなかったようで、応神天皇は百済王を継がせるために次男の末多(余牟大)を百済に送り、この人が24代東城王となりました。
応神天皇が長子の斯麻を日本に残したのは、自分の後の倭王を継がせるためだったのかもしれませんが、長男ではあっても百済人の母から生まれた斯麻(余隆)に倭王を継がせることには周囲から強い反対があったのかもしれませんね<(_ _)>。
東城王が501年に亡くなった後、応神天皇は長子の斯麻を百済へ送り、斯麻は502年に25代百済王に即位して、百済中興の王「武寧王(ムリョンワン)」となったのです。
蓋鹵王―文周王―三斤王―東城王―武寧王―聖明王
倭王を継いだのは宮主矢河枝比売から生まれたウジノワキノイラツコでした。学者さんたちが信じている「ウジノワキノイラツコは兄の大雀命(オオサザキノミコト=仁徳天皇)に位を譲るために自害した」というのは『古事記』の作り話です。仁徳天皇は架空の人物ですしね。