保衡が小野篁の息子だという↑の系図が事実なのかどうかは分かりませんが、この系図では保衡の子孫の義隆が武蔵国多摩郡(現・東京都八王子市)の横山荘を本拠として「横山氏(党)」を名乗り始めるまでの小野氏はみな「○○守」になっていたようですから、これが事実なら横山氏が「古代の名族・小野氏」の子孫であることはウソではないのでしょう。この時代には支配者(搾取者)層に生まれた者でなければ決して「○○の守」になどなれなかったのですから。
「横山党」ってどこかで聞いたことがあったような・・・・?と思ったら、八王子の郷土資料館で買ってきた「八王子文化財ガイドブック」に載っていました。八王子の代表的な古墳だという「北大谷古墳」がどこにあるのかがわからなかったので、場所を調べようと買ったのですが、この時は、結局北大谷古墳には辿り着けませんでした(T_T)。
多摩の古墳・八王子文化財ガイドブック
大学教授の学者さんたちは、『記紀』の内容に合わなければみな「謎である」としてしまうようですが(^_-)、地域の資料には、机上のつじつま合わせではない、実態に基づいた「『記紀』が隠した事実」がいろいろ書いてあるのです(^o^)。
天皇墓が上円下方墳だというのは学者さんたちの思い込みによる間違いで、アメノタリシヒコ以降の大王(天皇)墓は「八角形墳」か「方形の基壇に乗った八角形」だったのですから、上円墳とされている↑の北大谷古墳も天文台構内古墳も熊野神社古墳も大王墓に倣った八角形だったはずです。明治・大正・昭和天皇陵も八角形に造られるべきだったのだと私は思いますが。
熊野神社古墳
間違って上円墳に造られてしまった今はピカピカの武蔵野陵も、1000年後には木や草が生い茂った「古墳」になっているのでしょうね。
武蔵野陵
「八王子文化財ガイドブック」によれば、この横山荘とは現在の八王子の中心街だそうで、現在の地図では中央本線の八王子駅から北の多摩川に近い方に「元横山町」の地名がありました。駅と多摩川の中間にある八雲八幡神社の境内付近が横山氏の館があったところのようです。
この横山党は源頼義以来譜代の郎党として、その勢力は武蔵全域・相模東部の相模川沿い・甲斐国にまで及んでいたそうですが、鎌倉時代に和田義盛と婚姻関係を結んで和田氏の乱に関わったため本家が滅んでしまった後、衰退してしまったのだそうです。
多摩市の武蔵国一之宮・小野神社は、明治10年には↓のような様子だったそうです。
明治10年の絵図
こちらも大正15年に大火事で、本殿・拝殿・社務所をはじめ、資料や周辺の家屋まで焼失してしまったのだそうですが、府中市の小野神社とは違って今でも広い境内や参道が残っているのは、こちらには鎌倉時代まで小野氏の子孫が横山党として大きな勢力を持ち続け、祖廟を祀っていたからかもしれませんね。
ところで、今回大きな被害を受けてしまった倉敷市真備町の支所はハザードマップで危険地域と指摘されていた場所にあったと聞きました。2015年の鬼怒川の決壊では、災害対策本部の置かれていた常総市役所が水没してしまったのですが、そういう施設は、多少不便ではあっても沖積低地ではなく、古墳時代にはすでに陸地になっていた標高20m以上の洪積台地上に造るべきなのです。