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「金印・志賀島・阿曇族」35 宮地嶽古墳24 小野神社5

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2018.7.10 「金印・志賀島・阿曇族」35 宮地嶽古墳24 小野神社5 

 
武蔵国一之宮・小野神社の近くには「小野牧」、二之宮・小河神社の近くには「小川牧」、四之宮・秩父神社の近くには「秩父牧」と呼ばれる朝廷に納める馬を飼育する牧があり、これらの御牧で育てられた馬が貢納されていた記録が残っているそうで、小野牧を管理していたのは別当の小野氏だったそうです。
 
小野牧・小川牧の推定地 
イメージ 1

崇神系王族と藤原氏の台頭以降、武蔵国府近辺からは追われた(?)小野氏の一族は、府中の対岸の多摩丘陵にあった小野牧の管理者として続いていて、平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて武蔵国を中心として近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた武蔵七党と呼ばれる武士団のうちの横山党と呼ばれた集団になっていったようです。
 
↓は横山党小野氏の系図ですが、武蔵国の小野氏は、小野篁の子孫だったようですね。やはり「小野氏とは何者なのか」は謎ではなく、「古代の名族・小野氏」の出自であり、小野妹子の子孫だったようです\(^o^)/。
 
横山党小野氏の系図 
イメージ 2

妹子の子孫だということは、応神天皇(百済の王子・余昆))に招聘されて6世紀の初めに『千字文』を携えて渡来してきた百済の王族・和邇吉師(王仁博士)の子孫だということになりますね(^o^)。『記紀』を盲信する歴史学者さんたちは、王仁博士は3世紀に渡来したと信じて疑わないようですが(^_-)、『千字文』が作られたのは5世紀末~6世紀初めなのです。
 
歴史学者さんたちはどういう風につじつまを合わせているのかな?と思って調べてみたら、「記事自体がただの伝説である」だとか、「いくつかの事実を反映したものである」だとか、別の千字文があったのだ」とかというような「説」を作ってつじつまを合わせているようです(^_^.)
 
↑の横山党小野氏の系図では、この横山氏は小野篁の子孫になっていますが、篁は802853年の人なのに武蔵国一之宮・小野神社は755年にはすでにあったことが分かっているのですから、多摩市に小野神社を造ったのは篁の子孫ではなく先祖のようですね。
 
そこで小野氏の系図を辿ってみると

妹子―毛人―毛野―老(おゆ)―竹良(つくら・ささら)―永見―岑守―篁

となっていますから、755年より前というと多摩市に小野神社が造られたのは、769年に没した小野竹良以前の小野氏の時のようです。
 
でも、篁までの小野氏は中央官僚として都にいたのですから、本人たちが武蔵国に来ていたわけではないようです。小倉百人一首では篁は「参議」となっていますし、仁明天皇の皇太子・恒貞親王の東宮学士に任ぜられていたそうですしね。
 
多摩郡は妹子がアメノタリシヒコから食邑として与えられた領地で、実際に武蔵国に行っていたのは代々の当主(一族の長)ではなく、代理人か一族の誰かだったのかもしれませんね。 
 
 

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