2018.79 「金印・志賀島・阿曇族」34 宮地嶽古墳23 小野神社4
「さこ・にま」を調べた時、奈良と大阪は出てこなかったのですが、奈良盆地も京都盆地も大阪平野も古墳時代には海だったのです。
小野神社の続きに戻ります。
江戸時代以降は氷川神社が「武蔵国一之宮」を名乗っていたのですが、古代の武蔵国一之宮だった小野神社は、神道の国教化を図る明治政府によって「郷社」に指定され、明治45年には神社経費に公費が投入される神饌幣帛料供進社にも指定されたのだそうです。
社伝では、創建は「安寧天皇18年」となっているそうですが、安寧天皇は『古事記』が第3代天皇として創った架空の人物で、紀元前6世紀には天津族はまだ渡来していませんし、天皇家もまだなかったのですから、その頃に小野神社が造られた可能性は100%ありません(^o^)。
神社の社伝にしても旧家の神代からの系図にしても、自己申告のものは「ウソばっか」のようです<(_ _)>。人類にカミサマの子孫とニンゲンの子孫との二種類がいるわけではありませんしね(^_-)。
府中にも小野神社があるのは、欽明天皇の頃まで北武蔵と南武蔵に分かれていた武蔵国が534年の「武蔵国造の乱」を経て北武蔵と南武蔵を合わせた「武蔵国」になり、その後、国造の拠点が海退によって水位が下がって内陸になってしまった「さきたまの行田」から多摩郡の府中に移されると、小野氏の一部も多摩丘陵から武蔵国の中心となった対岸の府中に移り、その際に府中にも新たに祖廟を造ったからではないでしょうか。祖廟を造り祖先を祀るのは「名負いの氏」である子孫だけなのですから、府中に小野神社を造ったのが小野氏であったことは間違いありません。
その後、応神天皇の子孫は藤原氏によってことごとく謀殺されたり、暗殺されたり、宮廷から追われたり、皇位継承権のない臣籍に降下させられたりし、最後の応神系天皇となった称徳天皇が皇嗣を決めないまま亡くなると(これも藤原氏による暗殺だったようですが)、称徳天皇の遺詔を偽造した藤原氏によって天智天皇の孫の白壁王(光仁天皇)が770年に62歳で即位し、それ以降は崇神系の王統と藤原氏の世になりました。
そうなると大国の国司などポストには崇神系の王族や藤原氏の関係者が座るようになったのでしょうから、小野氏ら応神系王族の与党だった人々は冷遇され、排斥されるようになったのではないでしょうか。
2009年に府中の小野神社に行ってみた時、一之宮だったとはとても思えない様子に「まさか、これが?」と思ったのですが、武蔵国でも祖廟を祀る子孫が府中にはいなくなってしまったために、府中の小野神社は参道も境内もほとんどなくなってしまうほどに寂れてしまったのかもしれません。祭神まで瀬折津姫命などいう架空の人物に変えられてしまっているようですし<(__)>。
社殿は大正15年に火災で焼失してしまったため、現在の社殿はその後再建されたものだそうです。
現在の小野神社