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「金印・志賀島・阿曇族」33 宮地嶽古墳22 小野神社3

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2018.7.7 「金印・志賀島・阿曇族」33 宮地嶽古墳22 小野神社3
 
なぜ多摩川をはさんで二つの小野神社があるのか、どちらが「武蔵国一之宮」なのか、小野氏とは何者なのかも学者さんたちの間では「謎」になっているようです。
 
二つの小野神社と多摩川・国府との位置関係
イメージ 1

 
武蔵国は国力のランク付けでは最高ランクの「大国」なのですが、「大国」にランクされているのは13国しかなく、そのうちの3つ(上総・常陸・上野)は親王任国ですから、大国に赴任できる運のいい貴族は10人しかいなかったことになりますね(^o^)。そうであれば、大国に赴任できたのは、時の大王に近く大王の信頼の特に篤かった人や、よほどの功績があった人だということでしょう。貢献度トップ10ということですよね(^_-)
 
大国・武蔵の国府が置かれた多摩郡に赴任して、祖廟に「小野大神」を祀り、その祖廟が「武蔵国一之宮」となっていた小野氏とは、応神天皇の時から応神系王族の信頼が篤く、アメノタリシヒコの政権下では官僚の最高位に就いていた小野妹子の一族でしょう。
 
また、どちらが「一之宮」だったのかと言えば、府中市の小野神社があるのは「住吉町」であるのに対し、多摩市の小野神社があるのは「多摩市一ノ宮」ですから、こちらが「武蔵国一之宮」であろうと思います。全国的に一之宮があったところは「一ノ宮(町)」、二之宮があったところは「二ノ宮(町)」になっているようですから(^o^)
 
武蔵国では、二の宮の二宮神社が「東京都あきる野市二宮」、五の宮の金鑽神社も「埼玉県神川町二宮」となっていたので「あれ?」と思ったのですが、これは、地形の変化によって、元の二之宮だった金鑽神社が内陸になってしまったために衰えて五之宮になり、多摩郡にあった小河神社が二之宮に浮上したということだろうと思います。元は三之宮だった氷川神社は、現在は「武蔵国之宮」を名乗っていますが、ここは地名が「一之宮(町)」ではありませんから、一之宮を称するようになったのはずっと後のことであろうと思います(^_-)。 
 
武蔵国一~六之宮の配置は↓のようになっています。
イメージ 2

 
小野神社は755年にはすでにあったことが記録で分かっているそうですから、やはり小野氏が多摩郡に来たのは応神系大王の時代(天智天皇を除く欽明天皇~称徳天皇)の間のようですが、小野氏は、初め屯倉として欽明天皇に献上された多摩郡のうちの、御牧のある多摩丘陵の方にいたのではないでしょうか。住吉町の方はハケの下で低地のようですし、地名も「中河原」ですから、67世紀にはまだ海か湿地だったのではないかと思います。
 

地名と言えば、律令時代に総社が造られた所も全国的に総社とか総社町とかという地名になっているのですが、今回の大雨では、岡山の総社にも大きな被害が出ていて、昨日今日は、岡山県総社市と高梁川のことがずっと報道されています<(__)>


今日小田川の堤防が決壊したというニュースを聞いて、急いで地図を調べてみたら、決壊したのは矢掛町より下流のようでしたが、Killyさまはご無事でしょうか?小田川の「流れ橋」はこの大雨で流されてしまったのでしょうね(T_T)。

2015年には東日本の古代には海だったところが水浸しになってしまったのですが、今年は西日本の古代には海だったところが水浸しになってしまったようです(T_T)(T_T)(T_T)

 
 
 

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