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鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?2

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2017.4.18 鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?2
 
鹿島神宮の宮司は古代から昭和までずっと鎌足の一族の中臣氏だったのか、慶長年間に常陸大掾一族(本姓・平)の鹿島氏に代わっていたのか、中臣氏と鹿島氏はどういう関係だったのかがよく分からないので、鹿島氏について調べてみたところ、鹿島氏には
 
平姓鹿島氏(たいらせいかしまし):常陸大掾氏(平氏)の分家であり、常陸国鹿島の有力な武家(軍事貴族)で在庁官人となった。中世以降、地頭として鹿島神宮惣大行事職を世襲した。
中臣姓鹿島氏(なかとみせいかしまし):鹿島神宮の社家であり、大宮司職を世襲した。
 
の二系統があることが分かりました。実は、2011年にこのことは調べたのですが、まだ知識が足りなくて鹿島に二系統の鹿島氏がある理由や、この二系統間の関係を論理的に理解することができなかったので、そのうちよく考えてみようと保留にしてすっかり忘れていました(^_^.)
 
鴨大神御子神主玉神社の境内にあった石碑を見た時、いつか解読できるかもしれないと思って写真を撮っておいたのですが、ここにきてその繋がりがはっきりしてきたので、やっと2011年には読み取ることのできなかった石碑の「中臣○○連」の○○の部分の文字が「鹿島」という文字であることが分かったのです\(^o^)/。
 
境内にあった石碑
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この石碑は全体に字が薄くなっていて読み取りにくかったのですが、本文には康平6年・応永21年・永禄12年に修復されたことや、源頼義が北伐の際に戦勝祈願をしたこと、明治12年に郷社になったことなどが記されていて、最後に
 
昭和31年の修復に際して由緒を記して之を建つ 
昭和32317
茨城県神社庁 庁長
宮司 中臣○○連瑞比古撰 
 
と記されていたので、○○は読めませんでしたが昭和32年の鹿島神宮の宮司は中臣氏で茨城県神社庁の庁長だったことと、中臣氏のカバネは「連」であったことは分かりました(^o^)
 
鎌足の一族の「中臣連」は、ここでは地名を冠して「中臣連 鹿島の○○」と名乗っていたということでしょうか(^o^)。中臣氏の子孫は鹿島だけではなく、奈良や大阪などあちこちにいたはずですから。
 
この石碑を建てた昭和32年の宮司さんは「鹿島の瑞比古」氏だったのか、明治8年に「鹿島」を姓にして「鹿島瑞比古」氏になっていたのか、どちらでしょうね?




鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?3

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2017.4.19 鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?3

 

2011年に鹿島氏と中臣氏の関係を調べてみた時、「大宮司家鹿島氏参考系図」というものが見つかったのですが、そこには「鎌倉時代になると、常陸平氏大掾氏の一族鹿島氏が、鹿島神宮で頼朝から社領の寄進を受け、やがて大宮司の大中臣氏を圧倒して鹿島神宮を実質的に支配するにいたった。以後、平氏系鹿島氏は神事を司りながら、武士としても兵馬の権をもち、鹿島を中心に勢力を振るった。しかし、戦国末期にいたって、佐竹氏の手によって滅亡した。その後は、さきの中臣鹿島氏が大宮司職となり神事を司った。」と記されていました。

 

これによれば、鎌倉時代には常陸大掾氏の一族の鹿島氏が武家でありながら大中臣氏から大宮司職を奪って神事も司っていたが、この鹿島氏が戦国末期に佐竹氏に滅ぼされてしまったので中臣姓鹿島氏が大宮司職を取り戻したということのようです。つまり大宮司は大中臣氏(鎌倉時代まで)→平姓鹿島氏(鎌倉時代~戦国末期)→中臣姓鹿島氏(戦国末期以降)と代わっていたということのようですね。

 

けれど、平姓鹿島氏が佐竹氏に滅ぼされたのは1591年で、鎌倉時代には「鹿島城主」として絶大な力をふるっていたのですから、鹿島神宮を支配していたとすれば城主としてであって、武家の城主が大宮司を兼ねて神事を司ったりしていたはずはありません。

 

「本姓・平」の常陸大掾氏の一族で鹿島・行方地方を支配していた鹿島氏と「本姓・中臣」で鹿島神宮の神領を支配していた中臣氏が、同じ支配地の地名を冠して「鹿島の○○」と名乗っていたために混乱や混同が生じ、武家の平姓鹿島氏が大宮司として神事を司っていたというような誤解が生まれたのかもしれませんね(^o^)

 

ひょっとすると城主の鹿島氏が、庶子の娘や息子を鹿島神宮に嫁がせたり、婿や養子に入れたりして実質的に支配していたということかもしれませんが(^_-)。城主からそういう話を持ちかけられたら断ることなどできなかったでしょうから(^_-)

 

平姓鹿島氏が1591年に佐竹氏に滅ぼされ、慶長の初めに鹿島義幹の外曾孫の国分胤光が鹿島氏を再興した後、この武家の鹿島氏は地頭となったようですから、こちらの鹿島氏も大宮司を兼ねたりはしなかっただろうと思います。「泣く子と地頭には勝てぬ」といわれるように、武家の地頭は神官より身分も権限もずっと上だったようですから(^o^)

 

常陸大掾氏(本姓・平)の子孫で武家であった「平姓鹿島氏」は、鹿島城主だった時も、地頭だった時も、鹿島神宮の神職や大宮司になったことはなく、鹿島神宮の宮司や神職は、4世紀末の崇神天皇の東征の時から昭和32年まで、ずっと「中臣連」のカバネを持つ鎌足の一族(社家)だったのではないでしょうか(^o^) 

 


ネコビタイ便り 

赤い小さな原種のチューリップも咲き始めました。ずっと寒くて急に暑くなったので、早春の花から初夏の花まで入り乱れて咲いているようです。

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街路樹のベニバナトキワマンサクとハナミズキの花が目立つようになってきました。

 

お隣からタネが飛んできたらしい紫のオダマキがたくさん花を付けています\(^o^)/。

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鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?4

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2017.4.20 鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?4

 

鴨大神御子神主玉神社の石碑には「中臣連」と刻まれていましたから、中臣氏は「臣」でも「朝臣」でもなく、国津族の「連」だったのです。「藤原氏」は朝臣ですが、「藤原氏」になったのは不比等だけで、それも鎌足の死後かなり経ってからであって、鎌足は「藤原氏」にはなっていませんから、天智天皇から鎌足に与えられた姓は「藤原」ではなく臣(天津族の王族)に準ずる扱いをするという意味の「中臣」のカバネだったのだろうと思います(^o^)

 

天皇家に生まれなければ天皇にはなれない、臣(天津族の王族)の家に生まれなければ臣にはなれないというのが「身分制度」というものであって、カバネが「臣」か「連」かは、純粋に血統(天津族の王族の血筋なのか国津族の王族の血筋なのか)によって決まっていたのですから、もし不比等が国津族の鎌足の実子であったなら、「朝臣」にはなれなかったはずですが、不比等の子孫は天津族の王族の血筋であることを示す「藤原朝臣」なのですから、不比等は国津族の鎌足の実子ではなかったのです。

 

鎌足の子孫のうちで不比等の子孫だけが「藤原朝臣」になることができ、その他の子孫は「中臣連」のままであったのは血統(出自)が違うからであって、実に論理的で根拠がはっきりしているのです。なぜならそこを崩してしまっては「身分制度」は成り立たなくなってしまうのですから(^o^)


 不比等の出自については「古代の地形から『記紀』の謎を解く」の第14章をご参照ください。
 

ところで話は変わりますが、2011年に鹿島に出かけた時、地図に「塚原卜伝生家」があったので、「あれ?塚原卜伝って鹿島の生まれだったのか?それなら宮本武蔵も鹿島に来たことがあるのかな?」と考えて調べてみたのですが、武蔵が生まれたのは卜伝が亡くなった後であることが分かりました。

 

卜伝に関する私の知識は漫画かドラマで見た武蔵と卜伝の鍋蓋対決のシーンだけだったのですが、その唯一の知識であるエピソードは完全なフィクションだったのですね(^o^)

 

武蔵と卜伝の鍋蓋対決にしても、安宅関にしても、櫻井駅にしても、人口に膾炙して私たちが「歴史」だと信じているものの多くはフィクションとイリュージョンのようです。そもそも正史とされている『記紀』からしてフィクションとイリュージョンのオンパレードなのですものね~<(_ _)>

 

事実はないのに史蹟はある櫻井駅

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奥州に向かった義経が通ったはずのない場所にあった史蹟・安宅関

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鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?5

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2017.4.21 鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?5
 
鹿島に出かけたのは20119月だったのですが、たまたまその10月からNHKで「塚原卜伝」のドラマが始まるということだったので、卜伝はどういう人だったのかドラマを見てみることにしました。私はそれまで卜伝に興味を持ったことがなく、卜伝については武蔵との鍋蓋対決以外のことは何も知らなかったので(^_^.)
 
ドラマを見てまず「あれ?」と思ったのは、鹿島生まれの武士だと思っていた卜伝が鹿島神宮の人だったということでした。剣豪なのだから武士だと思っていたのに、卜伝は鹿島神宮の神主だったのかな?でも神主ならなぜ祝詞ではなく剣の修業などしていたのだろう?神主が回国修行などでずっと留守にしていても問題はなかったのかな?と釈然としませんでした<(_ _)>
 
そこで、塚原卜伝とはどういう立場の人だったのか、卜伝と鹿島神宮との関係を調べてみたのですが、「塚原卜伝は、鹿島神宮の神官・鹿島氏の四家老の一人である卜部覚賢の子」だそうなので、やはり神官だったようだけれど、鹿島神宮の神官の家にはなぜ家老が4人もいたのだろう?とますます訳が分からなくなってしまいました<(__)>
 
その上、「塚原卜伝は鹿島神宮の神官・卜部覚賢の子」なのに、ドラマでは神主さんらしい場面は全く出てこなくて、服装もヘアスタイルも武士のようだったので、本当に神官の子だったのかな?と疑問に思ったのですが、平氏の塚原安幹の養子になったとのことなので、このドラマはもう養子に行って武士になった後の話なのだろうと考えてみたり・・・・・
 
いろいろと釈然としないことが多かったのですが<(_ _)>、当時の私は中世史や近世史の知識があまりなくて調べてみてもよく分からなかったので、鹿島神宮と卜伝についてはそこまでにしておくことにしました。乏しい知識でその部分だけでつじつまを合わせようとすると見当はずれの説になってしまうかもしれませんから(^_-)
 
ちょうどその頃に、上総介になった平高望の子孫たちや、常陸介になった源義光の子孫たちが支配地を広げ、「平」や「源」から次々に佐竹や武田や鹿島など別々の「氏の名」を名乗っていたことが分かってきていたので、このさまざまな「氏の名」とは姓(せい)ではなく、領地の地名だったのではないか考えていたのですが、平姓鹿島氏の「鹿島」も、中臣姓鹿島氏の「鹿島」もやはり領地の地名だったのです(^o^)
 
そういえば、得川氏の系図を買って「徳川家康」になる前の「松平家康」の「松平」も領地の地名で、時宗の遊行僧だった徳阿弥が、三河国松平郷の山間の小部落の主の娘を妊娠させ、婿に入って「松平氏」になったのが松平徳川家の始まりなのだそうです。
 
松平郷ってどこにあるのかな?と調べてみたら、現在の愛知県豊田市松平町にあたる三河国加茂郡の巴川(足助川)東岸の山地の小集落で、一帯に残る館跡、城跡等は松平氏遺跡として国の史跡に指定されているのだそうです。いつか機会があったら行ってどんな所か見てみたいな♪


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この地図の中央辺りに松平があります。


鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?5

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2017.4.22 鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?5

 

「塚原卜伝は、鹿島神宮の神官・鹿島氏の四家老の一人である卜部(吉川)覚賢の子」なのに、実父の吉川覚賢から鹿島中古流を学んだそうですから、実父も剣の使い手だったようですし、回国修行の名分は「鹿島の剣を広める」ということでしたが、これは「神宮のお札や御神徳」を広めることとは関係なさそうだったので、鹿島神宮の神官と卜伝の剣の回国修行にはいったいどんな関係があるのか2011年にはとうとう最後まで分からないままだったのですが、ここにきてやっと分かってきました\(^o^)/。

 

卜伝は14891571年の人で、佐竹氏によって鹿島城が落城したのは1591年ですから、この鹿島氏は鹿島神宮の神官の「中臣姓鹿島氏」ではなく、当時一族で33の城を持ち、鹿島・行方の一帯を支配下に置いていた最盛期の鹿島城の城主だった「平姓鹿島氏」であり、上記の「鹿島氏の四家老」とは神宮の家老ではなく、尋常な規模ではなかったという鹿島城の家老であって、卜伝の実父の卜部(吉川)覚賢は神官ではなく、鹿島城の家老で武士だったのです。

 

この鹿島城の大手門は鹿島小学校前の交差点の付近にあり、本丸の跡地は、現在は鹿島城山公園、二の丸跡地は茨城県立鹿島高等学校になっていて、鹿島城の縄張りの東端は現在の鹿島神宮二の鳥居のあたりまであり、鹿島神宮の表参道である大町通りは当時は鹿島城内にあって、ここで流鏑馬がおこなわれていたそうで、城には二重、三重の掘があったそうです。本当に広大なお城だったのですね~。

 

鎌足の生誕地と伝わる鎌足神社はこの城山公園の南西にあります。

 

鎌足神社

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大職冠藤原公古宅址碑

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当時の剣はスポーツではなく人を殺す道具だったのですから、神官が剣の使い手だったということには違和感があって釈然としなかったのですが、実父の卜部(吉川)覚賢が鹿島城の家老で武士だったのであれば、鹿島中古流の剣の使い手であったことはおおいに納得できますね(^o^)

 

また、養子に行った先の塚原安幹が平氏だったというのも、塚原氏は常陸大掾氏(本姓・平)の一族の鹿島氏の分家なのですから当然で、剣豪・塚原卜伝は鹿島神宮や神官の中臣姓鹿島氏とは関係のない、武士の家に生まれた武士の子だったのです。

 

また、漫画やドラマでは武蔵が打ちかかった時、卜伝は囲炉裏にかかっていた鍋の蓋で防いだということになっていたので、卜伝は一部屋しかない小屋のような家に住んで自分で食事を作るようなつましい暮らしをしていた人だったのだと思っていたのですが、これも作家(?)の創りだしたフィクションにすっかり騙されていたようです。

 

養子先の塚原安幹は鹿島城主・鹿島氏の分家で、所領34千石の塚原城の城主であり、跡継ぎがいなかったため家老・吉川覚賢の次男の朝孝(卜伝)を養子にしたのだそうで、名を高幹と改めた卜伝は鹿島・行方にあった大掾氏一族の33館の城のうちの塚原の城主の跡取りになっていたのですから、小屋暮らしなどしていたはずはありませんよね(^_-)

 

鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?7

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2017.4.23 鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?7

 

塚原卜伝はただの剣士ではなく、塚原城のお殿様だったようです(^o^)

 

wikipediaによれば、「卜伝の回国修行の行列は80人あまりの門人を引き連れ、大鷹3羽を据えさせて、乗り換え馬も3頭引かせた豪壮なものであったと伝えられる」のだそうです。これも事実かどうかは分かりませんが、34千石とはいえ城主が旅に出るのであれば、それなりのお供は付いて行っていたのでしょうね(^o^)。まだ子のいなかった城主に万が一のことがあれば一大事ですし。

 

足利義輝や足利義昭や山本勘助らに剣術指南をしたという卜伝は、44歳の時に塚原安義の娘を娶ったのだそうですが、その新妻が間もなく病死してしまったため、塚原一族から幹重を養子に迎えて跡を継がせたのだそうです。

 

けれどこの塚原城も、卜伝が没した20年後には佐竹義重・義宣親子によって城主は殺され、城は滅ぼされてしまったわけですね<(_ _)>

 

初代・鹿島氏になった吉田成幹(鹿島三郎)から数代後の安重が初代塚原城主になったそうなので、塚原城はどの辺りにあったのか調べてみたのですが、行方に「字塚原」という地名があったらしいことは分かったものの、その場所もそこだったのかどうかも分かりませんでした<(_ _)>。でも、塚原もやはり地名でしょうから、地域の資料や古い字名などにはなにか手がかりが残っているかもしれません(^o^)

 

例えば、鹿島城の周辺には城山・宮中・宮下・神野などというただならぬ地名が残っていますが、地名はほんとうに大きな手掛かりなのです。


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やはり、大掾氏の子孫で武家で城主であった「平姓鹿島氏」が鹿島神宮の神官や宮司になったことはなく、鹿島神宮の宮司はずっと中臣連の子孫が世襲していたようです。

 

歴史の一部分だけを見てつじつまを合わせるような解釈をすると「平姓鹿島氏は鹿島神宮の大宮司であり、剣豪・塚原卜伝は、鹿島神宮の神官の子であった」というようなおかしな説が出来てしまうのですよね(^_-)

 

そういえば宮本武蔵も、漫画では「宮本村の百姓のセガレのタケゾウ」というような設定になっていましたが、これも創作だったようです。

 

私は自分に知識のないことは、教科書などはもちろんのこと漫画でも小説でも、本に書いてあることはつい事実なのだと信じてしまい<(_ _)>、でもなんだか納得できないな~と思っていたのですが、納得できない点を突き詰めて考えてみたら、そう感じる部分は「恣意的なつじつま合わせの解釈や創作」であって、要するに「うそばっか」だからだったのだということがやっと分かってきました。

 

日本の歴史はその始まりの「天孫降臨」からして大ウソだったのです<(_ _)>

 

鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?8

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2017.4.24 鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?8
 
pcat2sさま。「塚原城址」は鹿嶋市にあったのですね(^o^)。塚原という地名を探していて、「塚原古墳群」というものがあることは分かったのですが、昨日はその古墳群のある場所までは分かりませんでした<(_ _)>。古墳群があるのは現在の「沼尾」だったのですか。
 
さっそく地図で沼尾を見てみると、「塚原卜伝の墓」がありました。城主のお墓が何の縁もゆかりもない場所に造られたはずはありませんから、沼尾に塚原城があって卜伝が住んでいた可能性は高いようです\(^o^)/。
 
でも、沼尾は鹿島城の近くなので、そこは鹿島城主の領地だったのではないか?とちょっと疑問に思いました。城主の収入はその領地からの上がりですから、領地を増やし、それを守るために「一所懸命」命懸けで戦い、それを減らさないために長男を「総領息子」として、次男以下を養子に出したり出家させたりしていたのに、自分の城の足下の土地を34千石も割いて跡継ぎ以外の者に与え、眼と鼻の先に新しい城を造らせたりしただろうか?と違和感があったのです。それでは、わざわざ身内同士の領地争いのタネを作り出すようなものではないか?と。
 
そのこともあったので、ひょっとすると塚原城は鹿嶋ではなく行方にあったのかもしれないと考えたのですが、沼尾に「塚原城址」があり、卜伝の墓があるのであれば、やはり塚原城は沼尾にあったのでしょうね。
 
それでは、塚原城はなぜ鹿島城のすぐ近くに造られたのか、塚原城の34000石という領地はどこにあったのか?と考えていて、古代には台地の下は海だったことを思い出しました(^o^)
 
ちょうど源義光や平国香が常陸介や上総介となって下向してきた頃に、海面が下がった跡が広大な湿地となっていて、それを開墾することで義光や国香は開墾地主となって大きな財力を持つようになり、任期が終わっても都へは帰らずに土着し、その子孫たちも次々に開墾地主として支配地を広げていたのです。そしてその土地を守るために武士が生まれたのですよね。
 
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↑の航空写真の塚原と北浦の間のかつては海であり、当時は湿地になっていた現在の水田地帯を水戸の吉田郷から進出して来て初代鹿島氏となった吉田成幹(鹿島三郎)から数代後の安重が開墾して塚原城主になったのではないでしょうか。古墳群があったということは、そこは海に面した高台だったと思われますから、そこに城と墓が作られたのではないかと思います(^o^)

水田地帯は海抜5mくらいで、「沼尾」の台地は3040mくらいであり、卜伝の墓は20m位のところにあるようです。「沼尾」は海の跡の沼や湿地が尽きる台地の裾の地名で、当時台地の上は塚(古墳群)のある原で「塚原」と呼ばれていたのかもしれません。各地の大塚・赤塚などの「○○塚」や、塚本・塚原・塚田などの「塚○○」の地名は、塚の存在に由来するもののようですから(^o^)
 
現在は水田も台地も陸地になっていますから、その一帯がすべて「沼尾」と呼ばれるようになっているのかもしれませんね。私は現地を見ていませんし、その地域の資料で確かめたわけでもありませんから、これは航空写真や地図や地名や『記紀』『常陸国風土記』の記述などからの推理で、確認はしていないのですが(^_-)



 

鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?9

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2017.4.25 鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?9

 

鹿島神宮の大宮司は、崇神天皇の東征後(5世紀頃)から昭和までずっと中臣氏の一族が世襲してきたようですが、今はどうなのだろう?昭和32年以降の宮司さんも中臣氏の子孫なのかな?と考えて調べてみました(^o^)wikipediaによれば、

 

大宮司は古くは中央の大中臣氏から補任されていたが、長元年間(1028年~1037年)から大中臣氏と中臣氏(中臣鹿島氏)が交互に務めるようになり、建長年間(1249年~1256年)以後は中臣氏が世襲した(近世に塙氏を称する)

 

だそうですから、鎌足の没後も中央に残り続けていた鎌足の子孫は「大中臣氏」になっていたようです。そこで「大中臣」という氏族はどんな氏族だったのか調べてみると、三十六歌仙の一人である平安時代中期の大中臣能宣は神祇大副・大中臣頼基の子だったそうですから、鎌足の子孫は中央で神祇官になっていたのですね。

 

乙巳の変後から平安時代までは、この中央で神祇官になっていた鎌足の子孫の一人が大宮司として鹿島へ出向き、長元年間から建長年間までは鎌足の子孫の「大中臣氏」と在地の一族の「中臣姓鹿島氏」とが交互に大宮司になり、建長年間以降は在地の「中臣姓鹿島氏」が大宮司を世襲してきたということのようです。

 

(近世に塙氏を称する)ということは、明治8年に姓を持つことを義務付けられた時、中臣姓鹿島氏は「塙」を姓として現在は「塙氏」になっているということでしょうか?鹿島神宮では大禰宜も中臣氏が世襲していて、こちらは近世に羽生氏を称しているのだそうです。

 

昭和32年の石碑には「中臣鹿島連瑞比古」と刻まれていましたが、これは古式に則って記したもので、本名は「塙瑞比古」だったのでしょうか?それとも(近世に塙氏を称する)というのは間違いで今でも鹿島氏なのでしょうか?

 

昭和32年の宮司さんは「鹿島瑞比古氏」だったのか、「塙瑞比古氏」だったのか、「塙氏」だとするといつ「塙氏」になったのか気になったので検索してみたら、「鹿島瑞比古」氏は見当たらなかったのですが、「塙瑞比古(19021987)」という人がヒットしました。

 

昭和32年は1957年ですから、年代的にも合っていますし、「国会開設前後に於ける神祇官興復運動」という著書があると記されていたので、この方が昭和32年に「茨城県神社庁 庁長」だった「中臣鹿島連瑞比古」氏で、本名は「塙瑞比古」氏だったのかな?と思ったのですが、この方は笠間稲荷神社の宮司さんだったそうです。

 

う~~ん、「茨城県神社庁 庁長 中臣鹿島連瑞比古」氏は笠間稲荷神社の宮司の「塙瑞比古」氏なのでしょうか?それとも「中臣鹿島連瑞比古」氏と「塙瑞比古」氏は全くの別人なのでしょうか<(_ _)>?「瑞比古」というちょっと珍しいお名前と年代からは同一人物と考える方が自然なようですが・・・・・<(_ _)>

 

笠間稲荷神社の宮司の「塙瑞比古」氏が昭和32年の「茨城県神社庁 庁長」で「中臣鹿島連瑞比古」と石碑に刻ませたということなのかな~???

 

笠間稲荷参道 両側にお店がぎっしりと並んでいます

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拝殿前で行われていた雅楽と舞(2007年11月)
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菊人形
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鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?10

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2017.4.26 鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?10
 
鹿島神宮の宮司さんは中臣姓の鹿島氏なのか、塙氏なのか調べていたら、第67代目宮司・鹿島則文(かしまのりぶみ)氏に関する記事がありました。この方は明治34年に63歳で亡くなったのだそうですから、鹿島神宮の宮司さんは明治34年には「鹿島氏」であって、明治8年に「塙氏」になったのではないようです。
 
そのお孫さんは鹿島則幸氏で、この方は水戸の常磐神社の宮司をされていたそうですから、鹿島氏はずっと鹿島氏であって、「塙氏」になったことはないようです(^o^)
 
wikipediaによれば、鹿嶋の「中臣姓鹿島氏」は近世に「塙氏」や「羽生氏」を称したそうですが、近世とは「安土桃山時代と江戸時代を合わせた時代」とするのが一般的だそうですから、「塙氏」はその頃に「塙」を名乗るようになった中臣姓鹿島氏の分家だということでしょうか?
 
「塙」も地名が鹿嶋にあるそうですので、どの辺りかと探してみたら、鹿島神宮の南でそこには塙神社もありました。この神社が何を祀っているどんな神社なのかは分かりませんでしたが<(_ _)>、近世に塙で「塙氏」を名乗るようになった分家が自分の敷地に造った祖廟だったのではないでしょうか。鹿島神宮の宮司は本家の鹿島氏の嫡流が継ぎ、「塙氏」となった分家の子孫の一人が明治の初めに笠間稲荷の宮司になったということかもしれませんね(^o^)
 
すると「茨城県神社庁 庁長 中臣鹿島連瑞比古」氏は笠間稲荷の「塙瑞比古」氏ではなく、鹿島神宮の鹿島瑞比古氏だったということになるようですが、同じ時期に「瑞比古」という文字まで同じ同名の人が鹿島と笠間にいたということでしょうか?
 
鹿島則文氏は第67代目宮司ということで、鹿島神宮には歴代の宮司さんの系譜がしっかり残っているようですから、聞いてみることができればすぐに分かるのでしょうけれど(^_-)
 
5世紀の初めに鎌足の祖先の鹿島の神聞勝命(かむききかつのみこと)が崇神天皇から神領を貰って鹿島神宮の祭祀者になってから明治34年までに67代ですから、現在の宮司さんは70代か71代くらいでしょうか。
 
高麗神社の現在の宮司さんは、670年頃の初代の高麗王若光から60代目の宮司さんですが、
 
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鹿島神宮の初代はそれより270年くらい前の崇神天皇の時代の神聞勝命のようですから、そちらのほうから考えてみても70代前後と思われます。鹿島神宮の宮司さんの系譜には125代の歴代天皇や84代の出雲大社のような水増しはされていないようですね(^_-)
 

鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?11

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2017.4.27 鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?11

 

「中臣姓鹿島氏」の一族だった笠間稲荷の宮司さんには「国会開設前後に於ける神祇官興復運動」という著書があるようです。宮司さんたちは神祇官を復活させることに熱心なようですが、何のために復活させたいのでしょうね??

 

神祇官とは、「神(=天津神)」、「祇(=国津神)」の祭祀を司る人たちのことだそうですから、つまり宮司さんのことのようですが、神祇官は律令制度においては2官8省の2官(神祇官・太政官)であり、格式は太政官より上位だったのだそうです。律令時代には神祇官が貴族の最上位にいたわけですね(^o^)

 

その後仏教が隆盛になり、さらに武家の時代になったため、天皇家も神祇官も逼迫してしまったわけですが、明治維新の王政復古で天皇家は復権を果たし、その機に乗じて宮司さんたちも神祇官に返り咲いてお手盛りで華族(男爵)になったようです。

 

でもこの時は、平田神道に基づくあまりにも偏狭な国粋主義を振りかざしたために、「神祇官」は「神祇省」に格下げされて、明治政府では太政官の下に置かれるようになってしまったそうですが(^_^.)

 

戦後になって華族制度が廃止されても、神祇官たちは「元華族」や「神の子孫」としての特権はしっかり握り続けていたようですが、最近は科学の発展によって「神様」や「神の子孫」としての立場は危うくなってきているようです。昨今の神社本庁主導の「国民会議」ブームや「神道政治連盟」の活動の活発化や森友学園事件の背景にはその危機感があるのではないでしょうか。

 

神祇官を復活させようとするのは、明治維新の頃かできるものなら古代の律令制の頃に回帰させ、「神の子孫」としての特権を世襲する身分制度を復活させたいということなのかな~(^_-)

 

でもそのためには、子供たちが科学的な知識や考え方を身につけて自分で考えるようになる前の幼児期のうちに、非論理的で非科学的な神話や、その神話に基づく国家神道や、教育勅語などをすり込んで、疑問など持たないようにしておく必要があるのですよね。

 

子供達がみな『記紀』に疑問を持って「天から神様が降ってきたなんてウソだ。ニンゲンの先祖はチンパンジーだよ」などと言うようになったらゲームセット(the  game is over)ですものね(^_-)。それが昨今の日本会議ブームと「教育勅語と神道教育」を掲げた森友学園の建設が異常に優遇された事件の背景なのではないでしょうか。

 

森友学園の事件の経緯は記録が廃棄されて残っていないということでしたが、昨日になって籠池さんと財務省のやり取りの音声テープがどこかから出てきたようですね。籠池さんは「トカゲのしっぽ切りは止めてほしい」と言っていましたが、これは一個人の欲や不正の問題ではないだろうと私は思います。


 

鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?12

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2017.4.28 鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?12

 

先日の新聞に3月末に公表された新学習指導要領に関して「育て 批判的な思考力」という記事があったのですが、この記事によると、教育改革の目玉の一つとみられていた「アクティブラーニング(能動的学習)」という言葉がこの新学習指導要領からは消えて「主体的・対話的で深い学び」という言葉に置き換えられているのだそうです。

 

この改訂は、従来のような知識の詰め込み教育では世界水準の人材育成はできないということで、学びの質の転換を目指すための改訂だったのだそうですが、中でも欧米に後れを取っているのは批判的な思考力(クリティカルシンキング)で、これを育成するためには、書かれた内容を鵜呑みにするのではなく、その内容や論理展開を批判的に読み解き、自分の知的創造の糧とするような「批判的読書」が必要であり、欧米のハイレベルな大学では、この批判的読書が主体的学びを支える基盤だと考えられているのだそうです。

 

なるほど、無批判に丸暗記させる日本の教育とは真逆のようですね。


例えば歴史学者さんたちは、非論理的で非科学的な『記紀』を批判的に見るどころか鵜呑みにして信奉し、さらに非論理的で非科学的な論法を使ってつじつまを合わせる解釈をしてきたわけですし、子供たちは教科書に記されたその非論理的な解釈を事実として丸暗記させられてきたのですから<(_ _)>

 

「批判的読書ができれば主体的に学びを進めることができ、同時にそれができて初めて主体的学習者になることができる」のだそうですから、教科書や学説を信奉し、その内容を無批判に丸暗記することが勉強だと考えている限り、主体的学習者になることはできないというわけですね(^_-)

 

『記紀』や既存の学説に疑問を持って謎解きをしてきた私は、期せずして「批判的読書」をやってしまっていたということでしょうか(^o^)。納得できないから鵜呑みにできなかっただけで、けっして初めから批判的に見ていた訳ではなかったのですが、いつのまにか疑問を解くために自分で調べ、自分で考えるという主体的学習者になっていたようです(^o^)

 

りっぱな肩書きをお持ちの学者さんたちを始めとして、みんなが何の疑いもなく信じているらしい諸説に私は納得できなかったのですが、でもそれらの説を批判するどころか、納得できないのは自分に歴史の知識が足りないせいで自分が悪いのだと思っていたのです。

 

ところが納得するために行きがかりで疑問の答えを探す主体的学習者になったら、『記紀』や学説は「うそばっか」だということが見えてきてしまいました<(_ _)>

 

そのために最近は『記紀』を元にした歴史解釈や解説を見る眼が批判的になってしまい「人が悪くなってきた」ような気がしていたのですが<(_ _)>、これはひょっとすると「内容や論理展開を批判的に読み解くクリティカルシンキングが身についてきた」のだと肯定的に考えてもいいのかな(^_-)???

 
 

鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?13

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2017.5.1 鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?13
 
やはり森友学園問題は尻尾きりで幕引きとはいかないようですね。
 
知的創造や人材育成には「書かれた内容を鵜呑みにしない批判的な思考力(クリティカルシンキング)」が不可欠だ」ということから考えても、子供がまだ科学的な知識や判断力を持たない幼児期に、非論理的で非科学的な神話や、その神話を元に作られた国家神道や、全ては天皇のためにあるとする教育勅語などを強制的にすり込むのは「洗脳」であって、そういう教育方針は間違っていると私は思うのですが、そういった方針を堂々と掲げていた学校の建設が一個人の力だけで異例のスピードで実現していったはずはありませんよね。
 
でも、もしこの件が値引きの金額の大きさなどに疑問を持たれて発覚していなかったなら、森友学園はこの4月には開校していて、ほとんどの人が知らないうちに世界水準の人材育成とは逆行する「誤った認識に基づく偏狭な愛国主義者」を育てる洗脳教育が浸透していっていたのでしょうね<(_ _)>
 
「世界の全人類のうちで、天皇と一部の人だけが天から降ってきた神の子孫である」などという荒唐無稽で非科学的なオハナシが世界に通用するはずがないと私は思うのですが、日本国内だけで使われている元号も世界には通用しませんよね。私は、不便なだけの「元号」っていったい何のためにあるのだろう?と疑問に思っていたのですが、
 
これにも神様の子孫であることを自称する(?)「日本会議」が深く関わっていたようで、元号を法制化するために各界代表を集めて「元号法制化実現国民会議」(石田和外議長)結成したり、元号法制化の世論喚起にむけて全国47都道府県にキャラバン隊を毎年派遣したり、各地に都道府県民会議(地方組織)の結成を促したりしていたそうです<(_ _)>
 
私は、この「元号」が日本と世界の歴史を横断的に理解することを阻害してきた要因の一つだと思うのですが、これも「日本は他の国とは違う神の子孫が支配する国」であると主張するために「日本会議」が意図的にやってきたことだったのでしょうか<(_ _)>


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元号で教えられる日本史と、日本史や元号とは全く関係なく西暦で教えられる世界史とは、子供の頭の中で横断的には結び付かないのですよね<(_ _)>。中にはよく分かっていた人もいたのかもしれませんが(^_^.)、少なくても私は結び付けることができていませんでした(T_T)。縄文時代・弥生時代・古墳時代などという時代区分も世界史には無い日本だけのものでしたし・・・・・
 
学びの質の転換を目指すために改訂されたはずの新学習指導要領から「アクティブラーニング(能動的学習)」の言葉が消え、最近の研究を反映させたという「厩戸皇子」が「聖徳太子」に戻され、銃剣が中学校の保健体育の必修になり、パン屋はだめで和菓子屋ならいいというように細かく注文をつけられ管理された教科書で道徳を教え込まれ、教科書通りに考えたかどうかが評価の対象となるというように変質してしまったことの背景にも森友学園の建設を押し進めたたのと同じような「神風」の力が働いていたのではないでしょうか<(_ _)>



 

鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?14

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2017.5.2 鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?14

 

新学習指導要領の歴史教育について考えていたら、28日の夕刊に「歴史って楽しいよ」と言う記事が載っていました(^o^)。一部では歴史を学ぶ意味を生徒に実感させ、「もっと知りたい」という気持ちをかきたてる授業が始まっているのだそうです。まだほんの一部なのでしょうけれど・・・・・

 
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米英を中心に海外で評価の高い歴史の授業の特徴は、因果関係を考えさせたり、複数の資料を批判的に読み込んで自分の見方を述べさせたりと生徒の思考力を鍛えることにある。時間の流れを追うことが中心の日本とは大きく異なる。日本や世界の過去を知ることで視野を広げ、未来に生かすことが歴史を学ぶ意義の一つだ。

 

ということなのですが、そういう授業をできる先生が増えて、論理的に歴史の因果関係を考えるということが定着してくれば、ここに書いてきたようなことを頭から「でたらめもでたらめ!!」などという人は減ってくるかもしれませんね(^o^)

 

どこがどう違っているのかを指摘することもなく、ただ「でたらめもでたらめ!!」などと決めつけるのは、多分論理性や因果関係などを全く無視した既存の説を無批判に信奉している人で、『時の娘』の作者が言うところの「おかしなことにあなたが誰かに神話の真相を教えてやるとすると、その人は神話を伝えた人のことは怒らないであなたのことを怒る。誰しも自分の考えていることをひっくり返されるのは嫌なのだ。」ということなのでしょうから(^_-)

 

でも実際は、思考力を鍛えるような意欲的な授業をする(できる)先生はほんの一握りで、教科書通りに既存の説を無批判に受け売りする先生が大部分なのでしょうね<(_ _)>

 

たとえば「厩戸王」に関しては、保守系の「新しい歴史教科書をつくる会」が「聖徳太子を抹殺すれば、古代史のストーリーはほとんど崩壊する」などと批判し、反対意見を送るように会員らに働きかけた結果、従来通りの「聖徳太子」に戻されたようです。

 

反対意見を送った人たちは既存の説を信奉し、子供たちにそれをそのまま教え込むことになんの疑問も感じていない人たちなのでしょうね<(_ _)>。でもその人たちが属する会がどうして「新しい歴史教科書をつくる会」なのでしょう?「既存の説を守る会」「神話のウソを教え込む会」なのでは???

 

この「厩戸王」を「聖徳太子」に戻すということについては、3月に↓の「聖徳太子?厩戸王?」で、「一般からの意見公募で聖徳太子に戻した」というのは本当なのだろうか?と疑問を書いたのですが、

 

やはり一般の声ではなく、意図的に集められた「新しい歴史教科書をつくる会」の会員の声だったのですね<(_ _)>。同会はこの修正を「大勝利」としているそうですから、この会に属する人達にとっては、「批判的な思考力(クリティカルシンキング)」を否定し、既存の説を守ることができた」ことが「大勝利」だということのようです<(_ _)>

 

「日本会議」も「新しい歴史教科書をつくる会」も「批判的な思考力(クリティカルシンキング)」など必要ない、論理性など考えずに自分たちが教えることをひたすら信じていればいいのだ、ということのようですが<(_ _)>、ひょっとするとどちらのメンバーも同じ人達なのでしょうか(-_-)???



 

ヒスイカズラ

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2017.5.3 ヒスイカズラ

 

いいお天気になったので、神代植物公園に出かけてみました。

 

バラはまだ早くて、34品種が咲き始めたところでしたが、牡丹と藤が見ごろになっていてたくさんの人が写真を撮っていました(^o^)


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黄色い牡丹は数も種類も増えたようです。

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芍薬も咲き始めていました。

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ネモフィラとパンジーとカリフォルニアポピーは花ざかり 

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温室のダースベーダ―は今日は一輪だけで、モンキーオーキッドも二種類だけでしたが、ヒスイカズラがたくさん咲いていました(^o^)

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落ちていた花を拾って、前から、後ろから、横から写してみました。

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2017.5.4 菜の花

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2017.5.4 菜の花

 

花と言えば、34月に常磐自動車道を走ると、江戸川や利根川や小貝川の土手に一面に咲く菜の花の黄色の帯がどこまでも続いていて、私はその景色が大好きだったのですが、その景色は数年後にはもう見られなくなってしまうようです(T_T)

 
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太い根が腐るとミミズが集まって穴ができ、ミミズを食べるモグラ、モグラを食べるキツネがその穴を広げて堤防を決壊させる原因になるため、土手の菜の花の駆除と芝生への植え替えが進められているそうで、久留米市の筑後川では、2016年末までに約257千㎡がすでに芝に変えられているそうです。

 

今日、流山I.Cから江戸川の堤防が見える道を野田の方へ向かったのですが、2年前には一面に黄色くなっていた土手に黄色は見えませんでしたから、江戸川の堤防でも菜の花撲滅作戦は進んでいるようです。

 

2015.4の江戸川の土手

 
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生きとし生けるものはすべて、いつでもシェア争いをしているようで<(__)>、民族が共存共栄することも、ニンゲンと他の植物や動物が共存共栄することも簡単なことではないようです<(_ _)>

 

この繁殖力の強い菜の花はクロガラシとアブラナが自然交雑した帰化植物の「セイヨウカラシナ」で、日本へは中国から弥生時代に渡来して葉や茎は食用にされ、タネは和からし(オリエンタルマスタード)の原料になるそうですが、このタネは弥生時代に中国大陸や朝鮮半島から渡来した人達が持って来たものだったのでしょうか?鳥が運んできたものだったのでしょうか?

 

このカラシナの塩漬けを買ってみたら美味しかったので、また買いたいのですが、あまり売っているのを見かけないのですよね(T_T)

 

いちめんのなのはな いちめんのなのはな・・・・・・ やめるはひるのつき いちめんのなのはな

 

と一面に広がる黄色い花を見て思い出す頃にはもう固くなってしまっていて食べられないようですから、もっと早い時期に思い出さなければダメなのかな?

 

そういえば、この詩の作者の山村暮鳥のお墓は、水戸ロマンティックゾーンの水戸市八幡町の江林寺墓地にありました(^o^)

 

ところでカラシナは帰化植物だとされていますが、カラシナに限らず日本人も日本の動植物も、みな日本で独自に発生したものではなく、世界中から渡来してきたものが日本の気候風土に合わせて変化したり発展したりしたもののようです。国境などはシェア争いの結果として人為的に造られたものに過ぎず、地球上の全てのものはみな繋がっていたのですから。

 

日本人も西瓜もヒョウタンも因果を辿ればそのルーツはアフリカにありましたし、松岡任三博士が発見し、

 

Wasabi japonica Matum.」と名付けられて日本固有の種とされてきたワサビも、DNAの解析からそのルーツは中国にあることが最近分かったようですが、さらに辿ればこれもアフリカまで行き着くのかもしれませんね(^o^)


「天孫降臨」は『記紀』のウソで、天皇家のルーツは高天原ではなくアフリカなのです(^o^)


昨日のヒスイカズラは萎びてしまったのですが、人が手をあげて踊っている姿のように見えて面白いので写真を撮ってみました(^o^)


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鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?14

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2017.5.5 鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?14
 
先日の新聞に、連休に旅行の計画が無い人のために近くで楽しめるイベントの紹介があって、横浜里山ガーデンが載っていました。

丘陵地と谷戸とでできているような横浜の地形と遺跡はとても興味深いのですが、里山ガーデンの方には行ったことがなかったのでどんな所か見に行ってみました(^o^)でも今日は、斜面の大花壇に咲き乱れるたくさんの種類の草花に眼を奪われてしまったので、地形と遺跡の観察はお休み。
 
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本当は歴史よりも植物の方が好きなので、ついそちらに眼が向いてしまうのですが、歴史に戻ります(^_^.)
 
新学習指導要領は「厩戸王」を「聖徳太子」に戻してしまいましたが、聖徳太子のオハナシは作り話で論理的に矛盾だらけですから、「クリティカルシンキング」や「アクティブラーニング」に耐えられるものではないのですよね(^_-)
 
聖徳太子が架空の人物であることについては「古代の地形から『記紀』の謎を解く」の第3章「『古事記』の語る神話と実際の歴史の関係を推理する」をご参照ください。
 
実は2011年のこの本の後、2017年までの間にさらに新しい事実が次々に分かって来てしまったので、本当はこのブログを見ていただく方がいいのですが、せっせと検証と謎解きをしていたら膨大な量になってしまい、どこに書いてあるか探すのも読むのも大変になってしまったので、おおざっぱな所をダイジェストで(^_-)
 
ところで、「新しい歴史教科書をつくる会」は、「厩戸王」への改訂を阻止するために「聖徳太子を抹殺すれば、古代史のストーリーはほとんど崩壊してしまう」として、会員に反対意見を送るように働きかけたのだそうですが、これは、そのあたりの登場人物が架空の人物で、その「古代史のストーリー」が作り話であるために整合性がないことをはからずも認めてしまったということではありませんか?
 
たとえば、隋に国書を送った「日出処の天子」を、学者さんたちや教科書は「聖徳太子」だとしているのですが、「日出処の天子」から国書を受け取った隋の煬帝が答礼使として日本に送り、飛鳥で天皇に謁見した裴世清の復命の報告書には、女帝(推古天皇)も聖徳太子も出てきていないのですよね。そのことも「謎」とされているようですが(^o^)
 
なぜ出てこないかというと推古天皇も聖徳太子も架空の人物で、裴世清はそんな人たちに会ってはいなかったからで、裴世清が謁見した時の天皇は、後宮に大勢の女性を侍らせていた「阿輩鶏彌(おおきみ)姓は阿毎(あめ)、字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)」だったのです。
 
けれど聖徳太子が架空の人物であることを認めてしまうと、既存の説では聖徳太子の事績が誰の事績だったのかを説明することができなくなってしまいますし、聖徳太子を主人公として創られた「古代史のストーリー」やその解釈書や聖徳太子信仰は全て崩壊してしまいますから、「クリティカルシンキング」や「アクティブラーニング」などさせてなるものか、非科学的であろうと非論理的であろうと疑問など持ったりせず、これまで通り教えられたことを鵜呑みにして暗記していればいいのだということなのでしょうね<(_ _)>
 
でもこれは、世界水準の思考力を育成するための「学びの質の転換」とは真逆の方向に向かっていると私は思うのですけれどね~<(_ _)>



鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?15

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2017.5.6 鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?15

 

「自転車くま」さまから

 

聖徳太子復活は、慎重であるべきだったと思います。

以前、聖徳太子は、日本政府の信頼に関わる問題札、千円札の代名詞でした。

その肖像画は中国にあって、その盗用と分かり消えて行きましたが、そんな恥の上塗りをするのでしょうか。日本政府の信頼に関わる問題でもあるのです。

 

とのコメントを戴きましたが、盗用が分かったのは一万円札から肖像画が消えた時だったのでしょうか?

 

以前「2008年に日本書記と聖徳太子の捏造は証された筈です」とのコメントを戴いた時、2008年に分かったのかと思ったのですが、

 

一万円札から聖徳太子が消えたのは1984(昭和59)年でした。盗用が分かったのは1984年だったのでしょうか?教科書にはいつ頃まで「聖徳太子の肖像」が載っていたのでしょうね?一万円札から聖徳太子が消えてからも教科書には載っていたのでしょうか?

 

教科書での扱いはどうなっていたのだろう?と疑問に思って調べてみたら、今回「厩戸王」を撤回させるために「新しい教科書をつくる会」が作った呼びかけの文書が出てきたので読んでみました。

 

これによると、「約20年前に歴史学界の一部で『聖徳太子虚構説』なる学説が唱えられたことがあるが、その説は学問的に否定されて過去のものとなっている」のだそうです。

 

私は20年前には全く興味がなかったので、その説も否定された根拠も知らないのですが<(_ _)>、周回遅れで10年くらい前(?)に漫画の「日出処の天子」を読んで興味を持ち、「聖徳太子って本当はどんな人だったのだろう?」と調べ始めてみたら、架空の人物であったことが分かってきたのですが(^o^)


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「聖徳太子虚構説」とそれが学問的に否定されたということについては、「聖徳太子を抹殺する理由として、聖徳太子という名は100年後に創作されたものであるから聖徳太子なる人物は実在しなかったと主張されているが、歴代天皇の名も謚(おくりな)で呼ばれるのが慣例だから、この虚構論の筆法では歴史上のすべての天皇が存在しなかったことになり論理的に破綻している」というのが「新しい教科書をつくる会」の主張のようですが、架空の人物にも実在の人物にも諡号を付けることはできるのですから「諡号」そのものは実在の証拠にも非実在の証拠にもなりませんよね。諡号が実在・非実在の争点だったのであれば、聖徳太子虚構論もその否定論もなんの意味も無いと私は思うのですけれど・・・・。

 

諡号を持つ天皇にも神武天皇など欠史八代の天皇を始めとして架空の天皇がたくさん混じっているのですが、「新しい教科書をつくる会」はそれらの天皇も実在したと主張しているのでしょうか?そもそも紀元前600年頃は神代ではなく弥生時代で、日本にもそれ以前の旧石器時代からたくさんのヒトが住んでいたのですから、その頃にカミサマが初めてニンゲンの天皇になった」というオハナシ自体が論理的に破綻しているのではありませんか(^_-)

 

20年前の「聖徳太子虚構説」もそれを否定した説も、歴史の因果を論理的に辿ったものではなく、「クリティカルシンキング」や「アクティブラーニング」に耐えられるものではなかったようですが「新しい教科書をつくる会」は、何が何でも『記紀』のウソを信じさせたいようですね<(__)>

 

鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?16

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2017.5.7 鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?16

 

私はつい最近まで「日本会議」も「新しい教科書をつくる会」も全く知らなかったのですが、このところの一連のニュースを見ていて、「日本会議」・「神道政治連盟」・「神道教育を掲げる森友学園」は目的が同じようだし、「新しい教科書をつくる会」も同じことを言っているようだから、ひょっとすると根は同じで、全部同じ人たちがやっているのかな?と思いました。

 

この「新しい教科書をつくる会」の主張は

 

「学習指導要領は歴史学界の一部の空気に従う必要など全くありません。仮に歴史学界の学説がどのように展開しようと、歴史教育は国民としての自覚(ナショナル・アイデンティティ)を育てることを目的とし課題とする仕事であるからです。」

 

ということで、「新しい教科書をつくる会」の目的もやはり論理性も科学的事実も世界史との整合性も全く無視して「作り話の神話」に基づく愛国教育で「偏狭なナショナリスト」を作ることが目的のようですから<(_ _)>、ここにズラリと名を連ねている議員さんたちは、多分「日本会議」や「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」にも名を連ねている方たちなのでしょうね<(_ _)>

 

この「新しい教科書をつくる会」は「聖徳太子の肖像画」が教科書に載っていないことも非難していますから、「聖徳太子」の名前ばかりではなく肖像画も復活させようとしているようです。「仮に歴史学界の学説がどのように展開しようと」、「肖像画が他人のものであろうと」、そんなことは一切無視して「虚偽の神話」と「虚偽の神話に基づくナショナル・アイデンティティ」を死守するということのようです<(_ _)>

 

昨日、首相は2020年に新憲法施行を目指すと宣言しましたが、これらの一連の動きは全て改憲のためだったということでしょうか。

 

先日のコラム「あすへの話題」に、「聖徳太子をどうお呼びするか」と題して法隆寺の管長さんが、

 

ギリギリと事実を詰めてばかりでは夢が失われる。「これはウソだ、事実ではない」などと目くじらを立てず、ふわっとしておいたほうが良いのではないか。よく分からないものは「よく分からない」のままでいいのではといいたい

 

とお書きになっていましたが、その論拠は「聖徳太子というのは後から付いた名前だと強調するのが狙いなら、如何なものか。じゃあ歴代天皇はどうするのか。天皇の呼称はいずれも没後の諡だ」ということなのですが、これは「新しい教科書をつくる会」の文書の主張そのままですね<(_ _)>

 

聖徳太子を祀る法隆寺としては、「クリティカルシンキング」でギリギリと事実を詰められたりすれば「ストーリーが崩壊してしまう」から迷惑だということなのでしょうけれど<(_ _)>、「聖徳太子」はよく分からないことや夢なのではなく、事実を隠すために意図的に作られたウソなのです。意図的に作られたウソを「夢」と言い換えて「この国の歴史」として子供にすり込み続けるということの方が「如何なものか」と私は思うのですが・・・・・

 

法隆寺が秘仏とする聖徳太子坐像 

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作り話にはどうしても矛盾が出てきてしまって検証やクリティカルシンキングには耐えられませんから、今は権力で抑えたり隠したりできたとしても、この先いつまでもは続かないだろうと私は思います。「真実は時の娘(Truth is the daughter of time.)」であって、「権威の娘」ではないようですから(^_-)

 
 

鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?17 沖ノ島

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2017.5.8 鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?17 沖ノ島

 

「沖ノ島が世界遺産に登録される見通しとなった」そうですが、「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺跡群」として申請したものの半分は「世界的な価値を認められない」として除外されたそうで、除外の理由は「信仰・伝統は日本の国家的価値にとどまるものであり、世界遺産にふさわしい普遍的価値が見いだせない」ということなのですが、現状では妥当な意見だと私は思います。

 

沖ノ島の「世界遺産」としての価値は、人類の歴史に普遍的な考古学上・人類学上の遺跡や歴史にあるのであって、日本だけでしか通用しない後付けの人為的な信仰や伝統といった「神話に基づくナショナル・アイデンティティ」にあるわけではないのに、除外された遺跡群と「沖ノ島」の関連を文化庁も学者さんたちも根拠のないあやふやなこの「ナショナル・アイデンティティ」でしか説明することができないのですから<(_ _)>

 

沖ノ島 

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図録「宗像 沖ノ島の神宝」 

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宗像神社が祭神としているのは7世紀に『古事記』が創った神話の登場人物の「宗像三女神」ですから、オハナシ(創作)のカミサマと実際の遺跡との間に関連などあるはずもなく、学者さんたちの「・・・とすればよい」というような非論理的なつじつま合わせや、宗教関係者の「よく分からないままふわっとしておいたほうがいい」というような非科学的な論理ではイコモスを説得することはできないだろうと私は思います。

 

1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」として世界遺産に登録された法隆寺も、「世界最古の木造建築を含む仏教建造物は、設計と装飾美において人類の創造的才能を表す傑作であること」・「法隆寺地域には7世紀から19世紀までの各時代の優れた仏教建造物が残されていて、それらから日本と中国、東アジアにおける密接な建築上の文化的交流がうかがわれること」などの考古学的な価値や人類史上の価値が評価されたのであって、「架空の聖人である聖徳太子のオハナシ」や日本人の一部が信仰する「太子信仰」などの日本でしか通用しない「ナショナル・アイデンティティ」が世界遺産としての価値を認められたわけではないのですよね。

 

「新しい教科書をつくる会」は「厩戸王」を「聖徳太子」に戻したことを「大勝利」としていますが、「厩戸王」は実在した欽明天皇の孫(用明天皇の息子)のアメノタリシヒコの存在を歴史から隠すために用明天皇の息子として創られた架空の人物であり、「聖徳太子」はその架空の「厩戸王」に8世紀に淡海三船が付けた諡(おくりな)なのですから、「聖徳太子」と「厩戸王」は同一人物で、どちらも架空の人物なのです。つまり、どっちでも同じことなのですが、「聖徳」と「厩戸」では印象が全く違い、「厩戸」では有難味がないから戻すことができたことが大勝利だということなのでしょうけれど(^_-)、戻せたからと言って「聖徳太子」の実在が証明された訳ではないのです

 

この時代に大王(天皇)として実在したのは、欽明天皇の孫で用明天皇の息子だったアメノタリシヒコで、推古天皇も摂政の聖徳太子も架空の人物なのですから、聖徳太子(アメノタリシヒコ)の肖像というのであれば、法隆寺が秘仏としている12世紀に造られた像ではなく、アメノタリシヒコ(上宮法皇)と同時代を生きた止利仏師が、その上宮法皇への思いと祈りを込めて等身大に造り、そのいきさつを光背に刻んだ釈迦三尊像が、上宮法皇(アメノタリシヒコ)の肖像(に近いもの)であろうと私は思います。

 
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学者さんたちはこの銘文の「上宮法皇」を聖徳太子だと解釈しているのですが、この銘文には「聖徳太子」とも「厩戸王」とも記されてはいないのです。

 
 

鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?18 沖ノ島2

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2017.5.9 鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?18 沖ノ島2

 

沖ノ島の信仰・伝統に関連する(とされている)遺跡群は、「世界的な価値を認められない」として除外されてしまったため、これから一体登録を求めていくそうですが、その価値を信仰で説明しようとする限りそれが認められることはないでしょう。それらの遺跡群は、8世紀に作られたオハナシのカミサマとは何の関係もないのですから。

 

論理的に因果を辿れば、それらの遺跡が紀元前からの人類の移動・交流や、文化の伝播示す歴史上・人類史上の価値ある遺跡であり、沖ノ島と古代氏族・宗像氏の遺跡は一体のものであることが分かるのですが、学者さんたちはそういう見方をしていませんし、「日本会議」と一体化して神ががっている(?)日本政府は、非論理的な神話を前面に押し出して信仰で説明しようとしているようですから、その非論理的な説明でイコモスを納得させることはできないだろうと思います。

 
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遺跡群が除外されたことについて「審査厳格化が背景か」という記事がありましたが、これはイコモスの審査が厳しくなっているからではなく、靖国神社問題と同じで、説明に日本人以外の人達を納得させられるような論理性がないからだろうと私は思うのですが・・・・・

 

沖ノ島も古代氏族・宗像氏の遺跡の一部であり、人類史上で価値あるものであることの考察は、2016.6.15から2017.1.7までの「穂高神社と安曇野」をご参照ください。

「穂高神社と安曇野」https://blogs.yahoo.co.jp/sweetbasil2007/42828674.html

 

この項はNo.104まであって長いのですが(^o^)、安曇野にやってきて穂高神社に祖先を祀った海人族と沖ノ島・志賀島の海人族との関係や、その海人族はどこから日本にやってきた人たちだったのかなど、その因果を辿って分かってきたことはとても多かったのです。実はここから見えてきたことはまだたくさんあったのですが、この頃松本清張著「陸行水行」を読んで、穂高神社から宇佐神社に謎解きの興味が移ってしまったのですよね(^_-)

 

安曇野のお祭りや伝承からは、海人族がやって来た頃の安曇野は海か湖だったことや、ワニやサイが実際に日本にいたことなど思いがけないことまでいろいろ分かってきてしまいました\(^o^)/。


先日は「海のない岐阜県の瑞浪市から1700万年前のクジラの化石が出た」というニュースもありました。クジラの化石は海のない群馬からも埼玉からも栃木からもたくさん出ているのですが、それらの県は現在は海がないだけで、昔から無かったわけではないのですよね。サイやパレオパラドキシアやアンモナイトの化石だってあちこちから出ていますしね(^_-)

 

最近は恐竜の化石の発見も相次いでいますが、『記紀』の神話を信じるなら、恐竜がいたのは神代だということになりますよね(^_-)。『記紀』の神話は作り話で、整合性も論理性もなく、科学的事実とも反しているのですから、『記紀』の神話やカミサマでイコモスを説得するのは無理なのです。



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