2017.5.10 鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?19 沖ノ島と北の縄文遺跡
宗像神社の祭神は「宗像三女神」だそうですが、古代氏族・宗像氏が紀元前から祖先を祀っていたはずの宗像神社の祭神が、なぜ7~8世紀に作られた宗像三女神になっているのだろう?いつ宗像三女神になってしまったのだろう?と疑問に思ったのでwikipediaで「宗像三女神」を見てみたら、そこにはなんと↓のように記されていました(^o^)。
『古事記』に「この三柱の神は、胸形君等のもち拝(いつ)く三前(みまえ)の大神なり」とあり、元来は宗像氏(胸形氏)ら筑紫(九州北部)の海人族が古代より集団で祀る神であったとされる。海を隔てた大陸や半島との関係が緊密化(神功皇后による三韓征伐神話など)により土着神であった三神が4世紀以降、国家神として祭られるようになったとされる。
やはり『記紀』が作られるまでは、宗像神社は海人族が祖先を祀っていた祖廟だったようです。国家神となったのは4世紀ではなく、不比等が『記紀』に合わせて架空の神武天皇の陵を造らせたり、高天原を日向に作らせたり、杵築神社を出雲大社に造り替えたりするなど、様々な工作をしていた7世紀以降でしょう。
神功皇后は架空の人物で、すでに歴代天皇から削除されていますし、三韓征伐もウソですから、海を隔てた大陸や半島との関係が緊密化したというのは逆で、海人族は元々紀元前に大陸からやってきた人たちであり、7世紀には宗像徳善の娘が天武天皇の妻になって高市皇子を産むなど、王族との関係が緊密化していたのです(^o^)。
この宗像氏(海人族)が祖廟に祀っていた「三前の大神」を「宗像三女神である」としたのは本居宣長の『古事記伝』でしょうか。『古事記』は「胸形君等が祀っていた三前の大神である」として「宗像三女神」だとは記していないのですから(^o^)。
宗像氏が紀元前から「三柱の神」を祀っていたため、『古事記』は宗像三女神という三人のカミサマのオハナシを作ったのかもしれません(^_-)。この宗像三女神は『古事記』と『日本書紀』と「宗像大社の社伝」では名前や順番がまちまちになっているようですが、これはたぶん作り話だからなのでしょうね(^_-)。
世界遺産といえば、2013年に世界遺産暫定リストに掲載された「北の縄文遺跡」も未だに暫定リストに入ったままで登録に至っていないようですが、これも「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺跡群」と同じで、これらの遺跡群について「世界遺産」としての価値をイコモスに納得させるような説明をすることができないからでしょう。
日本の歴史はウソ八百の『記紀』を前提にしているため、約5500~4000年前を中心とする北日本の縄文遺跡が造られた時代は、日本史では神武天皇以前の神代だったことになってしまいます。『記紀』の記した日本の歴史には縄文時代が無いのですから、それらの遺跡を残したのはいったい誰なのかを論理的に説明することができないのですよね。神武天皇以前は神代だったと強弁するのであれば、カミサマが作ったものは人類の文化遺産にはなり得ないわけですし(^o^)。
考古学者は縄文遺跡として「世界遺産登録」を申請しているのに、歴史学者や「日本会議」や神がかりの日本政府は、その頃は神代であって縄文時代などなかったことにしているのですから、これでは論理性も整合性もないご都合主義の二枚舌であって、イコモスが納得するはずはありませんよね~<(_ _)>。