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鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?19 沖ノ島と北の縄文遺跡

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2017.5.10 鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?19 沖ノ島と北の縄文遺跡

 

宗像神社の祭神は「宗像三女神」だそうですが、古代氏族・宗像氏が紀元前から祖先を祀っていたはずの宗像神社の祭神が、なぜ78世紀に作られた宗像三女神になっているのだろう?いつ宗像三女神になってしまったのだろう?と疑問に思ったのでwikipediaで「宗像三女神」を見てみたら、そこにはなんと↓のように記されていました(^o^)

 

『古事記』に「この三柱の神は、胸形君等のもち拝(いつ)く三前(みまえ)の大神なり」とあり、元来は宗像氏(胸形氏)ら筑紫(九州北部)の海人族が古代より集団で祀る神であったとされる。海を隔てた大陸や半島との関係が緊密化(神功皇后による三韓征伐神話など)により土着神であった三神が4世紀以降、国家神として祭られるようになったとされる。

 

やはり『記紀』が作られるまでは、宗像神社は海人族が祖先を祀っていた祖廟だったようです。国家神となったのは4世紀ではなく、不比等が『記紀』に合わせて架空の神武天皇の陵を造らせたり、高天原を日向に作らせたり、杵築神社を出雲大社に造り替えたりするなど、様々な工作をしていた7世紀以降でしょう。

 

神功皇后は架空の人物で、すでに歴代天皇から削除されていますし、三韓征伐もウソですから、海を隔てた大陸や半島との関係が緊密化したというのは逆で、海人族は元々紀元前に大陸からやってきた人たちであり、7世紀には宗像徳善の娘が天武天皇の妻になって高市皇子を産むなど、王族との関係が緊密化していたのです(^o^)

 

この宗像氏(海人族)が祖廟に祀っていた「三前の大神」を「宗像三女神である」としたのは本居宣長の『古事記伝』でしょうか。『古事記』は「胸形君等が祀っていた三前の大神である」として「宗像三女神」だとは記していないのですから(^o^)

 

宗像氏が紀元前から「三柱の神」を祀っていたため、『古事記』は宗像三女神という三人のカミサマのオハナシを作ったのかもしれません(^_-)。この宗像三女神は『古事記』と『日本書紀』と「宗像大社の社伝」では名前や順番がまちまちになっているようですが、これはたぶん作り話だからなのでしょうね(^_-)

 

世界遺産といえば、2013年に世界遺産暫定リストに掲載された「北の縄文遺跡」も未だに暫定リストに入ったままで登録に至っていないようですが、これも「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺跡群」と同じで、これらの遺跡群について「世界遺産」としての価値をイコモスに納得させるような説明をすることができないからでしょう。

 

日本の歴史はウソ八百の『記紀』を前提にしているため、約55004000年前を中心とする北日本の縄文遺跡が造られた時代は、日本史では神武天皇以前の神代だったことになってしまいます。『記紀』の記した日本の歴史には縄文時代が無いのですから、それらの遺跡を残したのはいったい誰なのかを論理的に説明することができないのですよね。神武天皇以前は神代だったと強弁するのであれば、カミサマが作ったものは人類の文化遺産にはなり得ないわけですし(^o^)

 

考古学者は縄文遺跡として「世界遺産登録」を申請しているのに、歴史学者や「日本会議」や神がかりの日本政府は、その頃は神代であって縄文時代などなかったことにしているのですから、これでは論理性も整合性もないご都合主義の二枚舌であって、イコモスが納得するはずはありませんよね~<(_ _)>


『記紀』の神話は作り話なのですから、遺跡の世界遺産登録を目指すのであれば、「よく分からないままふわっとしておいたほうがいい」といった宗教関係者の「ウソを温存する非論理的な説明」や、歴史学者の「国内でしか通用しない作り話の神話を前面に出した非科学的な説明」ではなく、「日本における人類の歴史の足跡」としてイコモスや世界の人々を納得させられる矛盾のない明快な論旨と科学的・論理的な説明や実証が必要だろうと私は思うのですが、「新しい教科書をつくる会」や「国民会議」や「神道政治連盟」は、そういった論理的な思考を促したかもしれない「クリティカルシンキング」や「アクティブラーニング」の芽を摘むことで、非科学的・非論理的な神がかりの戦前や明治維新の頃の日本に押し戻そうとしているようです<(_ _)>
 
 
 
 
 
 
 
 
 

鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?20

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2017.5.11 鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?20

 

またまた鹿島神宮の宮司からはどんどん離れていってしまいましたが、4.26続きに戻ります(^o^)


鹿島神宮67代宮司の鹿島則文氏は、46歳の時伊勢神宮大宮司を拝命して15年間伊勢神宮の宮司を務めたのだそうです。あれ?どうして鹿島神宮ではなく伊勢神宮なのだろう?と思ったのですが、伊勢神宮の祭主家・大宮司、鹿島神宮大宮司、香取神宮大宮司、枚岡神社社家、気比神社宮司、平野神社・梅宮神社・吉田神社宮司家、春日大社社家、松尾大社社家など全国にわたって現在も有名かつ繁栄している神社の多くには中臣氏の累孫が関係しているのだそうです。

 

中大兄のクーデターへの協力と成功で一等功臣となり、中大兄(天智天皇)が皇位に就くと太政官の上に立つ神祇官となった鎌足は、全ての貴族の頂点に立ったようですから、「有名かつ繁栄している神社の多くに中臣氏の累孫が関係している」というのは、それらの神社を祖廟として祀っていた有力氏族と婚姻関係結んだり、神官として子弟を送り込んだりしていたということかもしれませんね。この全国にわたって有力な氏族の間に勢力を張り巡らした中臣氏とは、多分鹿嶋の「中臣姓・鹿島氏」ではなく、朝廷で神祇官となっていた鎌足の子孫の「大中臣氏」なのでしょう。

 

中臣鹿島連姓鹿島氏の系図は、

 

【1】天児屋命―【2】天押雲命―【3】天多禰伎命―【4】宇佐津臣命―【5】大御食津臣命―【6】伊香津臣命―【7】梨迹臣命―【8】神聞勝命

 

だそうですが、崇神天皇の時代に初代宮司になった神聞勝命が8代目とされていますから、天児屋命から梨迹臣命までの7人は架空の人物か、実在だとしても鹿島神宮の宮司ではなく、祖先である三笠神を祀っていた「跡宮」の祭祀者だったのかもしれません。

 

この三笠神は、鹿島神宮が造られた時に本殿の近くに遷されたため、元の宮は「跡宮」となっているのですが、初代の天児屋命が「天孫に従って179万年前に高天原から天降って来た」というのはもちろんウソで、中臣氏の先祖は天津族が東征して来る前から鹿島にいたのです(^o^)

 

三笠神が祀られていた神野の「跡宮」 

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↑の系図には、「鹿嶋市に鎮座する神宮の宮司家・塙鹿島家の家系を『中臣鹿島連姓鹿島氏系譜』(鹿島則良氏所蔵)によって略記すると・・・」とあったのですが、「中臣鹿島連姓鹿島氏」と「塙鹿島家」がどういう関係なのかが私はよく分かりません<(_ _)>

 

「中臣鹿島連姓鹿島氏」とは、建長年間まで中央から補任されていた鎌足の子孫の大中臣氏のことで、「塙鹿島家」とは、大中臣氏と交代で大宮司を務めていた鎌足以外の神聞勝命の在地の子孫の中臣氏だということでしょうか?大中臣氏以外の中臣氏は神宮のある鹿島山ではなく「塙」に住んでいたということなのかな~???

 

でも、鹿島神宮の宮司さんはみな「塙氏」ではなく「鹿島氏」を名乗っていたようですから、これは「近世に塙氏を称した」というのが間違いで、塙鹿島家とは「塙(に住んでいる方)の鹿島氏」だという意味なのでしょうか。

 

水戸市の常磐神社の宮司をされていたという鹿島則幸氏の写真が↓にありました(^o^)。この則幸氏は、67代則文氏のお孫さんだそうです。

 

というわけで、鹿島神宮の宮司は崇神天皇以来ずっと神聞勝命の子孫の「中臣姓鹿島氏」であって、鹿島城主だった「平姓鹿島氏(常陸大掾氏)」の子孫や、その家臣だった塚原卜伝の実父や養父が鹿島神宮の宮司や神官になったことはないようです(^o^)

 

「チバニアン」その後

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2017.5.12 「チバニアン」その後

 

しばらく前に、たまたまテレビで千葉県市原市にある約77万年前の地層が、「第四紀更新世前期・中期境界の地磁気逆転地層の時代の国際標準模式地」として、国際学会に登録の申請がなされ、世界の地質学者で作る「国際地質科学連合」で国際標準模式地と認められれば、この時代がラテン語で“千葉時代”を意味する「チバニアン」と名付けられるかもしれないというニュースを聞き、どういうことだろう?と興味を持ったのですが、

 

調べてみてもあまりよく分からず、その後続報もなかったので<(_ _)>、それなら現地へ行ってその地層を見て情報と資料を収集してこようと思い、去年の夏、養老渓谷へ出かけてみました。

 

養老渓谷とは?

 

行ってみて分かったこともいろいろあったのですが、

 

現地では「チバニアン」は全く知られていなくて、その地層がどこにあるのかの案内も、資料や説明なども全くなく、何も分からなかったので、マスコミに続報が出てくるのを待つことにしたのですが、その後このことに関するニュースは全くなかったのですよね。

 

それではイタリアに負けて「チバニアン」は消えたのかもしれないと考えたのですが、モンテルバーノ・イオニコやビィラ・デ・マルシェに決まったというニュースも無かったので、この件がどうなったのか知りたいと思い、去年の秋、千葉県立博物館に出かけてみました(^o^)

 

ところが、博物館には、「チバニアン」に関する展示物も説明もパンフレットや出版物も全く無かったので受付で聞いてみると、やはり「チバニアン」に関するものは現在は何もなく、以前展示したものがどこかにあるはずだけれど、今日は担当者が休みなのでどこにあるか分からないし、説明できる人もいないということでした(-_-;)。「チバニアン」は、博物館内でもあまり関心を持たれていなかったようです。

 

で、「チバニアン」はその後どうなったのかも、地磁気の逆転ってどういうことなのかも、どうして起きるのかも、起きるとどうなるのかも全く分からず、資料も入手できないまま帰ってきたのですが・・・・・

 

それから半年経って、5.6の新聞に「地質年代命名権 国際学会に申請」という記事が載っていました。これから申請するのだそうで、決まるのは来年なのだそうです。まだ申請もしていなかったのですね(^o^)。月内に申請するそうですから、申請されればその関連のニュースや解説なども出て来るかもしれません。

 
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願わくば「日本会議」や「神道政治連盟」や宗教関係者などに「77万年~126千万年前は神代だ」などという理不尽なイチャモンを付けられずに「チバニアン」に決まってほしいものです(^_-)「北の縄文遺跡」や「沖ノ島の遺跡群」の二の舞い・三の舞いにならなければいいのですが・・・・・・

 

この磁場の逆転は、生物の大量絶滅や気候変動に関係していると考えられているそうですから、もしも『古事記』が記したように179万年前に天孫が降臨して来ていたとしても、その子孫は77万年~126千万年前に絶滅してしまったのではないでしょうか(^o^)。

 
 

「チバニアン」その後2

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2017.5.13 「チバニアン」その後2

 

磁場の逆転は気候変動に関係しているらしいこと、最後の逆転があってからすでに77万年経っていることなどから、私は、このところ大地震や大噴火、豪雨や強風や突風や竜巻などのこれまでなかったような巨大災害・激甚災害や、異常高温で大勢の人が熱中症で亡くなったというようなニュースが急に増えてきたのは、ひょっとすると地磁気の逆転が始まっていることが原因なのではないかと思ったのですが、このことついては、私には全く知識がありませんので<(_ _)>、「地磁気の逆転」について基礎的なことを知りたいと思って資料を探したのです。

 

先日↓のような記事があったのですが、この記事によるとこれまでに地球上では多種類の生物絶滅が5回起きていて、4回目までは火山の巨大噴火によって引き起こされた寒冷化が原因だったことが分かってきたそうで、隕石の衝突によって恐竜が絶滅した5回目は非常に特殊な例だったのだそうです。


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私は恐竜が絶滅したという隕石の衝突のことしか知らなかったのですが、生物の絶滅はこれまでに5回も繰り返されていたのですね。

 

このところは地震ばかりではなく噴火のニュースも増えていて、日本でも昨年は箱根・桜島・霧島・焼山・阿蘇山などの噴火のニュースがありましたし、しばらく沈静化していた西之島がまた噴火を初め、島の大きさは元の13倍になったというニュースもつい最近ありました<(_ _)>

 

最近世界中で噴火や大地震が頻発しているので、プレートの動きが加速してきているのではないか、それも磁場の逆転と関係があるのではないかと思ったのですが、これは私が、最近プレートテクトニクスや地磁気の逆転などを知ったためにそう思っただけの素人考えにすぎないのでしょうか?そうであればいいのですが・・・・・・

 

4月まで雪が降っていたと思ったら、急に30度を超すような暑さになり、昨日は鹿児島で1時間に107.5mmもの激しい雨が降ったそうですが、10年前には「想定外」だったことが、最近は日常的に起きるようになってきているような気がするのです<(_ _)>

 

磁場の逆転というのは、ある日突然起きるわけではないと思うのですが、どのくらいの年月をかけて逆転するものなのでしょうね。磁場の逆転について基礎的なことだけでも知りたいものですが、どこかに小中学生向けの解説のような分かりやすい資料はないかな~?

 

今思い付いたのですが、ひょっとすると上野の科学博物館か、筑波の地質標本館には解説や資料があるかもしれませんね(^o^)

 

ところで、最近恐竜は、絶滅したのではなく鳥に進化したと言われているようで、先日は 羽毛恐竜の新種の化石が見つかったという記事があったのですが、その復元想像図を見て、「キジみたい。キジの祖先は恐竜だったのか」と思ったら、キジは恐竜っぽくみえてきたのですが(^o^)、スズメやメジロは恐竜だったようには見えないので、まだ半信半疑です(^_-)

 
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始祖鳥は教科書にあったので知っていたのですが、私は羽の生えた恐竜は知らなかったので、2015年に神流町の恐竜センターで、腕に羽の生えた恐竜を見て、「なに、これ?? まさか~」と思ったのですが、現在では、羽毛の痕跡が見つかっている恐竜は20属以上にのぼるのだそうです。


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そういえば、北海道のむかわ町で8mもある全身骨格の化石が発見された恐竜が「むかわ竜」と名付けられたというニュースも最近ありましたよね。このむかわ竜の化石は、白亜紀末(7,200万年前)の海底80200mで形成された地層から発見されたそうですから、現在のむかわ町は、この恐竜が死んで海に沈んだ7200万年前頃は水深80200mの海だったということですよね(^o^)

 
 
 

「チバニアン」その後3

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2017.5.14 「チバニアン」その後3

 

昨日「チバニアン」のことを考えていたら、今朝の新聞にさっそく記事が載っていました\(^o^)/\(^o^)/。

 
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2015年に聞いたのは、従来は78万年前に起きたと考えられていた最後の地磁気逆転が、「火山灰の精密な年代測定から約77万年前に起きたことを突き止めた」ということを発表したというニュースだったようです。

 

7778ではそれほど違わないのでは?一瞬思ったのですが、1万年違うということは人類史を考えれば大きな違いですね。人類が文字で歴史を残すようになってから現在まで全部合わせてもまだ1万年経っていないのですから(^o^)

 

地質学では約46億年の地球の歴史を115に区分していて、約258万年~約1万年前までが「更新世」とされ、4つに区分されているこの時代の2区分にはまだ名前がなく、そのうちの一つが「チバニアン」になる可能性があるということのようなのですが・・・・

 
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でも、4つの内の二つにはすでにイタリアの地名から「ジェラシアン」「カラブリアン」と名前が付いていて、「千葉セクション」と同時代の地層がイタリアには2カ所あるそうですから、3番目が突然聞きなれない日本の地名になるよりも、イタリアの地名に決まる確率の方が高そうですね(T_T)(T_T)(T_T)

 

とにもかくにも地球46億年の歴史の中に「神代」が存在する余地はないわけですが、神がかりで訳の分からない非論理的なつじつま合わせばかりしている歴史学から脱却して、論理的・科学的な思考に向かうためにも、ぜひとも「チバニアン」に決まってほしいものです。固定観念に凝り固まった人たちはもうどうしようもありませんが、次代の子共達が地球の歴史に関心を持ち論理的・科学的な思考に向かう大きなきっかけになるでしょうから(^o^)

 

ところで昨日、逆転するまでにはどのくらいの年月がかかるのだろう?と考えたのですが、逆転に至る過程では当然のことながらこの磁石の働きがほぼ0になる時期があるはずですが、少なくても過去200年間、磁石の力は弱まり続けてきているのだそうです。

 

ということは、今回の逆転はすでに200年前から始まっていたということなのではないでしょうか?

 

生物の大量絶滅とアンモナイト

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2017.5.15 生物の大量絶滅とアンモナイト

 

東北大の研究によると、生物の大量絶滅の第一回目は44千万年前だそうで、この時はサンゴ礁や三葉虫などの海の生物の約8割が絶滅したのだそうです。

 

石灰岩は有孔虫、ウミユリ、サンゴ、貝類、円石藻、石灰藻などの生物の殻(主成分は炭酸カルシウム)が堆積してできたものですから、たとえ現在は海のない県にあったとしても、高い山の天辺のあったとしても、現在石灰岩のある所は、かつてはみな海底だったということなのですよね(^o^)

 

むかわ竜の化石が発見されたむかわ町が白亜紀には海だったことは、アンモナイトの化石がたくさん出ていることからも分かりますが、化石があった所は、当時は陸地から10kmも離れた沖合だったそうです。

 

その白亜紀の地層が、現在は隆起して(?)陸上に露出しているのでむかわ竜の化石が発掘されたわけですが、白亜紀末の同じ地層から2014年に発見されたアンモナイトの化石は新種であることが分かったそうで、新種のアンモナイトが確認されたのは今回で25種目なのそうです。

 

むかわ町だけではなく、北海道は種類も数も多く、アンモナイトの宝庫のようですね。

 

アンモナイトは、古生代シルル紀末期(もしくはデボン紀中期)から中生代白亜紀末までのおよそ35千万年前後の間海洋に広く分布し繁栄していたそうですが、アンモナイト亜綱は、オルドビス紀(485百万年~4億4千4百万年前)から生息するオウムガイ亜綱(Nautiloidea)の中から分化したものと考えられているそうですから、この仲間は14回目の大量絶滅をものともせずに生き抜き、5回目の隕石衝突時についに恐竜と共に絶滅したということでしょうか。人類とは比較にならないほどの長い長い年月に渡って繁栄し続けていたので化石も大量に見つかるのですね。

 
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去年の連休にフォッサマグナ博物館に行った時には、私はまだアンモナイトは巻貝の一種なのだと思っていたのですが、その後、神流町恐竜センターでアンモナイトは貝ではなくイカやタコの仲間の頭足類だったことや、いろいろな形のものがあることなどが分かってきました(^o^)

 
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イカは「頭足類」だしゲソ(下足)といいますから、私は頭から足が生えているのだと思っていたのですが、イカのゲソは足ではなく触手だそうで(^o^)、アンモナイトも足ではなく触手なのだそうです。


アンモナイトについてはまだいろいろと間違った思い込みをしていたことが分かってきました<(_ _)>


 

茨城県自然博物館とアンモナイト

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2017.5.16 茨城県自然博物館とアンモナイト
 
私は、アンモナイトは貝の化石で、手元にある↓のようなものだと思っていたので、
 
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去年フォッサマグナミュージアムで七色に輝くオパールのようなアンモナイトや美しい模様のアンモナイトが展示されているのを見て「細工物かな?どうやって作ったのだろう?」と思ったのですが(^_^.)、その後オパールのようなアンモナイトは人工物ではなく、カナダのアルバータ州から産出するプラセンチセラスで、「アンモライト」と呼ばれて宝石として扱われていることを知り、アンモナイトの色や模様や形に興味を持ち始めました(^o^)


 フォッサマグナミュージアムのアンモナイト
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フォッサマグナミュージアムでアンモナイトを見たのはたまたま展示室にあったからで(^o^)、その時にはフォッサマグナとヒスイと塩の道について知るのが主眼だったので、きれいだな~と目を引かれながらもゆっくり見ている時間がありませんでした(T_T)。あの時もっと良く見ておけばよかったと残念に思っていたら、この連休に思いがけずたくさんのアンモナイトに遭遇することができました\(^o^)/。
 
先日流山i.cから野田の方へ向かっていたのは、江戸川土手のカラシナを見に行ったわけではなく、将門の館のあった岩井(現・坂東市)の菅生沼に行こうとしたら高速が渋滞していたので、流山で下りて野田の方から利根川を越えて菅生沼に向かおうとしていたのです。
 
ところが着いてみると、茨城県自然博物館に入館してからでないと沼の方には行けないようになっていて、930の開館を待つ人の長蛇の列ができていました<(__)>
 
そこで、せっかく入館するために待ったのだから博物館の展示を見てから行くことにしたら、たまたま「アンモナイト・ワールド」の企画展が開催されていたのです\(^o^)/。
 
ここでアンモナイトについていろいろな知見と知識を得られたばかりではなく、企画展の図録と虹色の小さなアンモナイトもミュージアムショップで入手することができました\(^o^)/\(^o^)/。オパールのような美しいアンモナイトを見てから、黒や茶色ではないアンモナイトの化石が一つ欲しいな~と思っていたのです(^o^)
 
企画展図録「アンモナイト・ワールド」 
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ちょっと虹色の小さなアンモナイト 
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これはカナダ産のアンモライトではなくマダガスカル産のものでしたが、マダガスカルは世界的なアンモナイトの産出地の一つなのだそうです。これらの色はどうやってできたのでしょうね?
 
マダガスカル産のアンモナイト 
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カナダ産のアンモライト 
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ミュージアムショップ

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2017.5.17 ミュージアムショップ

 

「アンモナイト・ワールド」の図録を見て、手元にあるアンモナイトの入っている黒い丸い石はノジュールというものだということを知ることができました(^o^)


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北海道では、毎年川沿いの崖から大量の化石が現れるそうですから、北海道に行くことがあったらノジュールを探してみよう♪ 北海道では↓のところから出て来るそうで、この地域の白亜紀の地層には「莫大な量のアンモナイトが含まれている」のだそうです(^o^)

 
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三笠市立博物館にも行ってみたいな~。

 

三笠の対岸(現在は石狩平野の西の縁)は巨大クジラの化石が出た月形町ですしね♪

 

ちなみに茨城自然博物館の企画展「アンモナイト・ワールド 恐竜時代の海へ行こう」は6.11までの開催です。ミュージアムショップには虹色のアンモナイトや、アンモライトを使ったアクセサリーも置いてあります(^o^)

 

フォッサマグナミュージアムには「砂漠のバラ」も展示されていたのですが、形が魅力的なので一つ欲しいなと思っていたら、去年の夏に行った裏磐梯の噴火記念館のミュージアムショップに小さな「砂漠のバラ」が置いてありました\(^o^)/。マダガスカルの虹色のアンモナイトには「白亜紀前期 約1億年前」と書いてありましたが、こちらにはメキシコ産としか書いてありません。

 

メキシコ産「砂漠のバラ」 大輪のバラではなく、ミニバラですが(^o^)

 
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自然博物館のミュージアムショップは大混雑でしたが、最近のミュージアムショップは楽しいのですよね。前を歩いていた若い男性の背中のリュックからは恐竜の首が突き出していました。大きなフィギュアを購入したのですね(^o^)

 

さきたま史跡の博物館では国宝「金錯銘鉄剣」を入手できましたし\(^o^)/。

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これは金文字の銘文が入った鉛筆なのですが。

 

これらはみんな楽しい「お宝」として、涸沼に面した台地の畑で拾った黒曜石の矢尻や、海のないはずの埼玉で見つけた1500万年前のサメの歯などと一緒に、「宝箱」にしまってあります(^o^)

 

ところで、茨城自然博物館にも羽が生えて鳥になった恐竜がいました(^o^)。大きな恐竜の骨格の前に 恐竜が鳥になったと書いてあったので、「まさかこんな重そうなものが飛べるはずないよね~」と思ったのですが、「↑を見てね」と書いてあるので、「??」と恐竜の頭の方を見上げていったら、天井から鳥の骨格が下がっていました(^o^)。恐竜が鳥に進化したというのはもう常識になっているようです。

 

科学系のミュージアムでは、行くたびに日進月歩の新しい知識が得られ、古い常識はどんどん変わっていっているのに、歴史関係の博物館ではいつまで1300年前に不比等がついた「天孫降臨」のウソを後生大事にしてつじつま合わせの解釈を続けるつもりなのでしょうね~<(_ _)>

 
 

茨城県自然博物館と菅生沼

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2017.5.18 茨城県自然博物館と菅生沼

 

私の歴史探訪は、荒又宏著『帝都物語』を読んで、書かれていることのどこまでが史実でどこからがフィクションなのだろう?と興味を持ち、大手町の首塚や神田明神など小説に出てきたところを確かめに行ってみたことから始まったのですが(^o^)、その頃に岩井には将門の胴体を埋めたという胴塚のある延命院や、将門の石井の営所跡や、将門を祀る国王神社などがあることが分かってきたので、2007年にそれを確かめに岩井へ出かけてみました。

 

将門の胴体を埋めた延命院 

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将門を祀る国王神社 

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その時に延命院の近くにあった一言主神社や菅生沼にも行ってみたのですが、菅生沼には対岸まで橋が渡してあって、橋の上からは周囲に人工物がほとんど見えず、広い空と緑と水がとても気持ち良かったことを思い出して、久しぶりに菅生沼に行ってみようと思い立ったのです(^o^)


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その時の橋はすでに傷んでしまっていて、半分が新しい木に替えられているのを見て、「将門の足跡探訪」に出かけた頃から橋にあちこち穴が開いてしまうほどの長い間、私は「歴史探訪」を続けていたのだということを改めて実感しました(^_-)
 

歴史は部分部分のつじつま合わせで成り立っているのではなく、全部が流れとして繋がっているので、気の向くままに現代の歴史に繋がる将門の足跡を辿っているうちに必然的に古代の歴史につながっていき、それがさらに人類の発生や地球の誕生にまで繋がっていって『古事記』のウソが見えてきてしまったのです。

 

2007年には、ここでウソの群れやタヌキの屍骸や草むらを走るテンを目撃し、水に頭を突っ込んで餌を探していたコハクチョウの頭がみな赤茶色になっているのを見て、この沼は鉄分が多くて葦の根には褐鉄鉱の玉がスズナリになっているのではないか? 将門はその鉄で開墾のための農具や武器を作ったのではないかと考えたりしました(^o^)

 

台地の上の「あすなろの里」で開かれていた地元の物産展(?)でカラシナの漬物を買ったのはこの時だったのですよね。

 

今回久しぶりに行ったら、以前より水面がずいぶん小さくなっているような気がしました。この沼もかつては台地と台地の間に入り込んでいた海だったに違いないと考えていたのですが、自然博物館のある台地の上からは橋の周囲にあまり水面が見えなくなっていたので、かつては海だった関東平野も、海面が下がるにつれてだんだんに干上がって行き、そこに土砂が堆積して葦の茂る湿地になって陸地化していったのだろうなと関東平野が海退によって広大な平野になっていった過程を見ているような気がしました(^o^)

 
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↑の写真は橋の上から沼の西側の台地を写したものですが、画面中央の木の上にツノのようなものが見えるでしょうか?それが沼の西岸の台地の端に建っている自然博物館なのですが、以前行った時にはツノの下に建物の一部が見えていましたから、この年月の間に木もずいぶん伸びたようです(^o^)

台地の裾と葦原の間にはカラシナの花が咲いていました。
 
 
 

将門の石井の営所と地形

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2017.5.19 将門の石井の営所と地形

 

「将門探訪」に出かけた当時の私には将門に関する知識がほとんどなかったので<(__)>、なぜ将門は現代まで祟り続けるほどの怨霊になったとされているのだろう?将門の首塚や胴塚は本当に存在するのだろうか?それともこの小説は全部がフィクションなのだろうか?と好奇心が膨らんだのです(^o^)

 

当時の私は神社に祀られているのは「神様」だと信じていて、ニンゲンが祀られているなどと考えたことも無かったので、神田明神が神様ではなく「ニンゲンの将門」を祀る神社だということも信じられませんでしたし(^_^.)

 

というわけで、2007年に岩井に出かけた時には、将門の胴塚は本当に岩井にあるのか、地元ではどのように伝わっているのかなど将門の実像を知るのが目的だったので、地形との関係などは全く考えてみなかったのですが、今回は以前より水面が小さくなったような気がする菅生沼を見て、この沼には流入河川や流出河川があるのかどうかが気になってきたので、地図で地形を調べてみました。

 

菅生沼は東西に続く標高20mほどの台地の間を南北に伸びている標高10mほどの谷にあって、この谷にはいくつもの川が流れていて、上流にはもう一つ菅生沼があったのですが、この二つの菅生沼は、以前はこの谷を満たしていた一続きの大きな沼だったのではないでしょうか。

 

奈良時代に筑波の麓まで海だった頃には、標高10mのこの谷も海だったに違いないと思い、この谷はどこまで続いているのだろう?と辿ってみると、将門の石井の営所や将門を祀る国王神社の先まで続いていて、将門関連の遺跡はこの谷の東側の台地上にあったことが分かりました。ということは、将門の時代の長距離移動や輸送の手段は主に舟だったのでしょうね、

 

将門の居館の鬼門に造られていたという延命寺の本尊は「島の薬師」と呼ばれているようです。延命寺へ行った時、なぜ陸地にあるこの寺が「島の薬師」なのだろうと奇異に思ったのですが、現在は水田地帯にあるこの寺は、藤原秀郷らによって石井の営所一帯が焼き払われた後、この低湿地に再建されたものなのだそうです。その頃この場所は、本当に島だったのでしょう(^o^)

 

「島広山延命寺 島の薬師」 

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将門は、千葉県の佐倉市で生まれ育ったようですが、今は利根川を境に千葉と茨城に別れている佐倉と岩井は、将門の時代には一体のものだったようです。江戸湾に流れ込んでいた利根川が付け替えによって東遷し、銚子の方に流されるようになったのは家康の時代になってからですし、1868年(明治元年)には現在の千葉県北西部、埼玉県東部、茨城県西部は葛飾県として一括りにされていて、その当時の県庁は、流山市に置かれていたそうです。

 

1871年(明治4年)には葛飾県から印旛県となり、1873年(明治6年)に北西部の印旛県と南部の木更津県とが合併して千葉県となり、その時に県庁は千葉県のほぼ中央にある千葉市に移されたのだそうです。


現在の千葉県北西部、埼玉県東部、茨城県西部が将門の本拠地であり支配地だったようですね。


2万5千分の1の地図

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2017.5.20 25千分の1の地図

 

地形と歴史の関係に関心を持つようになった頃、私はもっぱら国土地理院の25千の1の地図で地形を見ていたのですが、地理音痴の私には、目的の場所を探したり、どの部分の地図を買えばいいのか調べたり、地図の等高線を辿ったりするのは時間がかかりましたし、ここを見たいと思ってもすぐに地図を買いに行くこともできなかったのですが、グーグルの地図を見るようになってからは、地名で検索すれば目的の場所がどこにあるかすぐに探せるようになって(^o^)、航空写真で地形も分かるようになりましたし、拡大して周辺の地名や地形などを細かく見ることもできるようになって本当に便利になりました\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/。

 

そのため、パソコンで地図を見るようになってからは25千の1の地図を見る機会は少なくなっていたのですが、先日の新聞にこの地図に関して「廃棄予定の地図再利用」という記事が載っていたので目を引かれました。

 
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国土地理院から新しい地図が刊行されるために廃棄されることになった在庫の地図を再利用して「地図扇子」を作って販売したところこれが人気になっているという記事で、この地図は丈夫で破れにくいので、地図センターが等高線などの図柄の美しい部分を生かして「穂高岳」「蔵王山」「筑波」「東京西部」「東京西南部」「浅間山」「金沢」「京都北部」「宮之浦岳」の9種類の扇子を作って販売を始めたのだそうです。

 

どれも魅力的なのですが、中でも去年地形と歴史について「穂高神社と安曇野」であれこれ書いていた「穂高岳」周辺と、今年になってまたいろいろと興味が出てきた「筑波」周辺の扇子が欲しいなと思って調べてみたら、すでに全種類が完売してしまっていました(T_T)。私はいつも新しい情報には周回遅れになってしまうようです<(_ _)>「古いことばかり考えているからだ」と言われていますが(^_^.)

 

今後、「増毛」「乗鞍岳」「松江」「高松北部」「与那国島」5種類を追加で作成する予定があるようですが、予約は受け付けていないそうです。

 

地図の好きな人は多いようですが、方向音痴で地理音痴の私も地図が大好きです(^o^)。資料館に地図があれば買ってきますし、観光案内所では必ず地図を貰ってきます(^o^)。同じ場所の地図でも、遺跡マップ・観光マップなど目的によって記入してあるものが違うので面白いのです。それぞれの地域の地図には、地元の地図にしかないようなものも載っていますしね(^o^)

 

地形と歴史の関係に興味を持ち始めた頃には月刊の「地図が好き」マガジン『地図中心』を取り寄せたりもしていたのですが、なぜか何時まで経っても頭の中で地図が繋がらなくて相変わらず方向音痴・地理音痴なのですよね~。きっと空間認識能力がないのでしょうね<(_ _)><(_ _)><(_ _)>

 
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でも、行ったことがある所も、ない所も、地図や地形図を見ているといろいろな発見がありますし、「ああ、だからここには城跡があるのか」と納得できたり、「ここには城跡か遺跡がありそうだ」と推理したりできるので面白いのです(^o^)



増毛って?

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2017.5.21 増毛って?

 

地図センターが追加で作成する予定の5種の扇子のうち「増毛」が日本のどこにあるのか私は全く見当がつかなかったので、地図検索をしてみたら北海道の石狩平野の西側にあることが分かりました。

 

「増毛」って地形ではないし、日本語の地名としては「ましけ」という音(おん)も、「増毛」という文字も違和感がありますよね。ちなみに「増毛」で検索したら「ぞうもう」が出てきました(^o^)

 

地図を見ると増毛町には「暑寒別岳」という山があるのですが、私はこれも読み方が分からなくて、寒いのはともかくとして北海道の標高1492mの高山が暑いはずはないだろうと違和感がありました。

 

意味が分からないこれらの地名はアイヌ語かもしれないと思って調べてみると、増毛はアイヌ語の「マシュキニ」「マシュケ」(カモメの多いところ)であり、暑寒別岳(しょかんべつだけ)はアイヌ語の「滝の上にある川」を意味する「ソー・カ・アン・ペツ」であることが分かりました。それなら地名としておおいに納得できますね(^o^)

 

北海道の地名には「内」や「別」が多いようだと思っていたのですが、「内」(nay)も「別」(pet)もアイヌ語で川のことなのだそうです。北海道の広大な平野は元は海だったのですから、海までの水路として川がたくさん残っているのではないかと思い、試しに「登別」と「サロベツ」の地図を出してみたら、やはり川がたくさんありました(^o^)

 

シリ(sir)は地面・土地・山、ソー(あるいはショー)は滝のことだそうですが、ショー・ナイは「滝川」(たきかわ)とされていますから、増毛や暑寒別岳のようにアイヌ語の音(おん)に似た音(おん)の漢字を当て嵌めたものと、滝川のように音(おん)ではなく同じ意味の漢字を当てたものとが混在しているようです。

 

以前、埼玉県の越辺(おっぺ)川に行った時、その音の響きからこれはアイヌ語なのではないかと考えたのですが、「おっぺ」の「ペ」は、やはりアイヌ語の川を意味する「pet」のようですね。

 

アイヌ語ということは、縄文人の言葉だったのでしょうね。2800年前頃に弥生人が渡来してくるようになるまで、2万年以上も日本全土に住んでいたのは縄文人だったのですから。

 

文字を持って中国や朝鮮半島から渡来してきた弥生人たちが、縄文人たちの地名に文字を当て嵌めたのではないでしょうか。学者さんたちは卑弥呼の時代(3世紀)の日本にはまだ文字はなかったと思い込んでいるようですが。

 

アイヌ人が「ソー・カ・アン・ペツ(滝の上にある川)」と呼んでいたという「暑寒別岳」は増毛山地の主峰で、第三紀(約400万~200万年前)に活動した火山だそうですから、現在の西之島のように、その頃に海面に姿を現して標高1492mになるまで噴火し続けたということなのでしょうね。1000万年前にはまだ影も形もなかったようですから(^o^)


 1000万年前の日本
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でも「暑寒別岳」は山で、別(=川)ではありませんから、これは弥生人たちの聞き違いか勘違いで、「ソー・カ・アン・シリ(滝の上にある山)」だったのかもしれません(^_-)

 

2015年には元の12倍の大きさになった西之島は、

 

2017年には13倍に成長したようです。

 

現在どんどん育ちつつあるこの島は、「日本会議」や「神道政治連盟」や日本を代表する哲学者や宗教学者や歴史学者がどのような詭弁を弄してつじつまを合わせをしようとしても、天地創造時にカミサマが創ったものではありませんし、神代にイザナギとイザナミが天沼矛で作ったものでも、もちろんイザナミが産んだものでもないのです(^o^)

 
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地図・地質と筑波

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2017.5.22 地図・地質と筑波

 

地図といえば、筑波には「地質標本館」や「地図と測量の科学館」があり、このところ人間の歴史よりも地球の歴史の方に目が向いていたこともあって、地図や地形や地質絡みで筑波周辺に出かけるようになっていたのですが、地球の成り立ちや歴史を探っているうちに、筑波周辺にたくさんある古代の遺跡や中世の城跡が相互に因果関係で繋がってきて、ニンゲンの歴史についてもいろいろなことが分かってきたのです(^o^)

 

多気太郎から多気城と藤沢城・小田城の関係や、常陸大掾となって常陸に土着した平氏(平国香の子孫たち)が石岡周辺から関東一円に支配地を広げていって多気氏や吉田氏や鹿島氏や行方氏などになっていったことや、その平氏と争っていたのが鹿島を中心に崇神天皇の時代から常陸に根を張っていた中臣氏や、常陸の武田郷や佐竹郷に土着して武田氏や佐竹氏となっていた源氏(新羅三郎義光の子孫たち)だったことなどなど・・・・・・

 

それらは全て、そういった結論を出すために調べていたわけではなく、疑問に思ったことの因果を辿っているうちに一本の糸となって混沌の中から浮かび上がってきたものだったのですが(^o^)

 

地球の歴史の方に目が向いたのは、「カミサマが7日間で全てのものを造った」だとか、「イザナミが日本列島を生んだ」だとかといった子供の頃に聞いて納得できなかった地球や日本の成り立ちに論理的な納得できる説明があったからなのです(^o^)

 

荒唐無稽な神話の観念的なつじつま合わせの解釈に基づいた博物館や歴史館の展示や解説よりも、観察や観測や分析などの事実に基づいた展示や解説がされている科学博物館や「地質標本館」や「地図と測量の科学館」や自然博物館や天文台などの方が私にはずっと面白いし興味があるのですが、そういう場所にはいつもたくさんの固定観念にとらわれていない好奇心にあふれた子供たちがいるのですよね(^o^)

 

子供は、直感的に納得できないことには必ず「なんで?」と言いますから、人間は本質的には論理的な生き物なのではないかな~と思うのですが(^_-)、そんな子供たちの好奇心や疑問を感じる心を、荒唐無稽な作り話の神話や理不尽な教育勅語を有無を言わせずにすり込もうとしていた森友学園の「神道に基づく教育」のようなものや、観念的な道徳教育で評価する新指導要領などで潰さないでほしいものです<(_ _)>

 

でもそれらのことはさておいて、この季節の筑波周辺は、虫麻呂が『常陸国風土記』に「昔の人が常世の国と言ったのは、こういう国なのではないか」と記したように本当に気持ちがいいところなので、春になると「ウグイスが鳴き、山笑う」筑波周辺に出かけたくなるのですよね。最近はさらに「地質標本館」や「地図と測量の科学館」や「実験植物園」や中世の城跡探訪などが加わってきたのでますます楽しみになってきています(^o^)

 

女体山のロープウェー駅から平沢官衙方向を見る 

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画面中央の低い山の向こう側が平沢官衙で、こちら側の水田は、虫麻呂が筑波の歌垣に参加した頃には海で、「鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津の 其の津の上に・・・・」と歌った裳羽服津(裳萩津)であり、筑波の歌垣はこの津の上の筑波の麓で行われていたのです。


向こう側のピークは男体山の頂上

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塙って? ひたちなか市武田の「塙」

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2017.5.23 塙って? ひたちなか市武田の「塙」

 

地図や地形図を見ているうちに、同じ地名の付いている所は地形に共通性があるということや、地名は地形から来ていることが多いようだということが分かって来て、地名から今とは違っていた古代の地形を推理することができるようになってきました(^o^)

 

↓は4.25pcat2sさまから戴いたコメントですが、

 

茨城県には「塙」という地名も苗字も多いですね。鹿嶋にも塙という地名がありますし、現在の鹿島神宮の宮司も塙鹿島家のようです。笠間稲荷の宮司は明治初年に鹿島神宮より迎えられたようで、同じ塙鹿島家(中臣鹿島連)かなと思います。(その辺は笠間稲荷のホームページに書いてありました)ちなみにひたちなか市武田の湫尾(ぬまお)神社のあるところも塙という地名で、中臣氏の勢力が伸びていたところで武田が甲斐に流罪になるきっかけを作ったようですね。

 

私は「塙」という地名があることを知らなかったのですが<(_ _)>、「塙」が地名で関東のあちこちにあるのであれば、「土偏+高」の「塙」とは小高い地形を表しているのかもしれないと考えて、鹿嶋とひたちなか市武田の「塙」がそういう地形なのかどうかを調べてみました。

 

関東平野は奈良時代にはまだ大部分が海で、その後も海が退いた跡は江戸時代や、場所によっては戦中・戦後に食糧増産のために干拓されるまで、湖沼や湿地だったようですから、「塙」とは、その地名が付けられた当時は海や湖沼や湿地に面した小高い場所のことだったのではないだろうか?と考えたのです(^o^)

 

実は、2010年に湫尾神社と武田氏館に行った時、そこが小高い台地の上で、台地の下は那珂川まで続く平らな水田地帯になっているのを見て、ここは台地の端(はな)で、「湫尾(ぬまお)」は「沼尾」だったのではないかと思ったのですが(^o^)、そこが「塙」という地名だったのですね。

 

武田館跡と湫尾神社の森と海の名残(?)の武田溜(稲荷谷津)

 
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右側の高い所が湫尾神社の森で、左側の平坦部が武田館があった所

 

城館は、元はスリバチ山と呼ばれていた湫尾神社から続く標高20mの武田台地の南端にあったのだそうですが、このスリバチ山は昭和43年に常磐線の那珂川鉄橋かけかえ工事の際に鉄道敷に利用するために崩されてしまって現在は平坦になっているそうで、西側の山もそれ以前に山砂利を採るために削られて平らになっているそうですから、昔の地形は「塙」という古い字名にしか残っていないようです<(_ _)>

 

湫尾神社の北側にあった現在の武田氏館を、私は元の城館の跡に建てられたものだと思っていたのですが、そうではなく、武田氏の城館は神社の南東のこの台地の端(はな)にあったのですね。

 

地図には「塙」という地名は載っていなかったのですが、これは「字名」で、字西塙(武田502)には「西塙遺跡」があるそうです。字名には古代の地形が分かるものが多いのですが、古い地名や字名は、地元の資料館の地図でないと普通の地図では分からないのですよね~<(_ _)>

 

ここまでの実地踏査で、遠浅の海に面した舌状台地の縁は古代人が最も好んで住んだ場所で、集落の跡や貝塚があることが多く、弥生人が好んで古墳を造った場所でもあり、中世には武士が城を造っていた場所だということが分かって来たのですが、この「西塙遺跡」からも旧石器時代や縄文時代の遺物が出土しているそうですし、館跡の先端部には直径10m、高さ5mの円墳と思われる塚もあったそうです\(^o^)/。



塙って? ひたちなか市武田の「塙」2

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2017.5.24 塙って? ひたちなか市武田の「塙」2

 

「甲斐武田氏発祥の地 常陸武田の里」によれば、武田郷に土着して武田冠者となった源義清・清光父子の居館は、南東方向に舌状に伸びた武田台地の南端に位置し、東と西には深い谷津が巡り、南西側は断崖になっている要害の地だったのだそうですが、2010年にここに行った時にはなんの予備知識もなかったので、この神社の南西側が水田地帯に面した断崖になっているということしか分かりませんでした<(_ _)>

 

ここに行ったのは本当に偶然で、ひたちなか市に出かけたのは、その日が虎塚古墳の公開日になっていたので、古墳を見学するためだったのです。古墳には知識も関心もなかった頃に新聞で虎塚古墳の壁画の写真を見て、古墳だから奈良か大阪の方にあるのだろうと思っていたのですが、その古墳がひたちなか市にあるということを知って驚き、なぜひたちなか市に古墳があるのか?どんな所にあるのか?と好奇心が膨らんで、まさに「なんでなんで」と公開日を待って出かけて行ったのです(^o^)

 

虎塚古墳

 









古墳内の見学には人数制限があったので、順番を待って並んでいる間に受付にあった↓の資料を見て、ひたちなか市に「武田」があることも、武田氏が常陸の人だったことも全く知らなかった私はまたまた驚いて、一冊購入しながらこの「常陸武田の里」はどこにあるのかと聞いてみたら近かったので、ついでに寄ってみたというわけなのです(^o^)

 


この資料を見て、「吉田」「武田」「佐竹」「逸見」などの姓とされているものは、やはり支配地の地名だったのだと確信することができました\(^o^)/。

 

どこをどう通って辿りついたのか記憶がないのですが、武田氏館に着いた時、私はそこが館跡なのだと思ってしまったので、帰宅してから購入した資料の写真を見て、行った場所と写真の館跡の地形や風景が全く違うことに驚いたのですが、私は北東の台地の方から武田館に着いて、常磐線の西側にあった神社の南西の崖と崖下の水田を見ただけで、実際に館があった常磐線の東側には行っていなかったのですね<(_ _)>

 

ずっと写真にある武田溜や深い谷津はいったいどこにあったのだろうと不思議に思っていたのですが、やっと謎が解けました。もう一度行ってみれば地形がよく分かり、もっとたくさんのものが見えるかもしれません(^o^)

 

現在の湫尾(ぬまお)神社前の道路は、往時は深い切り通しで稲荷谷津に連結し、神社域を囲んでいた濠だったのだそうですが、神社の前の道までは行ったのに、その時は切り通しにも濠の跡にも見えませんでした。「視覚を真に司るのは眼ではなく知識」のようですから、それを知った上で改めて眺めれば、切り通しや濠の痕跡を見つけられるかもしれませんね(^_-)

 

武田氏館略図

 





現在は美田となっている南西側の水田地帯は海抜57m位ですから、この水田と那珂川は縄文時代には海であり、古代~中世にも崖下や東西の谷津はまだ海だったと思われます。この「塙」は遠浅の海に突き出した舌状の武田台地の端(はな)であり、常磐線は、この台地の端の館跡と神社の間を切り通して敷設されているようです。

 


塙って? ひたちなか市武田の「塙」2

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2017.5.24 塙って? ひたちなか市武田の「塙」2
 
「甲斐武田氏発祥の地 常陸武田の里」によれば、武田郷に土着して武田冠者となった源義清・清光父子の居館は、南東方向に舌状に伸びた武田台地の南端に位置し、東と西には深い谷津が巡り、南西側は断崖になっている要害の地だったのだそうですが、2010年にここに行った時にはなんの予備知識もなかったので、この神社の南西側が水田地帯に面した断崖になっているということしか分かりませんでした<(_ _)>
 
ここに行ったのは本当に偶然で、ひたちなか市に出かけたのは、その日が虎塚古墳の公開日になっていたので、古墳を見学するためだったのです。古墳には知識も関心もなかった頃に新聞で虎塚古墳の壁画の写真を見て、古墳だから奈良か大阪の方にあるのだろうと思っていたのですが、その古墳がひたちなか市にあるということを知って驚き、なぜひたちなか市に古墳があるのか?どんな所にあるのか?と好奇心が膨らんで、まさに「なんでなんで」と公開日を待って出かけて行ったのです(^o^)
 
虎塚古墳
 
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古墳内の見学には人数制限があったので、順番を待って並んでいる間に受付にあった↓の資料を見て、ひたちなか市に「武田」があることも、武田氏が常陸の人だったことも全く知らなかった私はまたまた驚いて、一冊購入しながらこの「常陸武田の里」はどこにあるのかと聞いてみたら近かったので、ついでに寄ってみたというわけなのです(^o^)
 
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この資料を見て、「吉田」「武田」「佐竹」「逸見」などの姓とされているものは、やはり支配地の地名だったのだと確信することができました\(^o^)/。
 
どこをどう通って辿りついたのか記憶がないのですが、武田氏館に着いた時、私はそこが館跡なのだと思ってしまったので、帰宅してから購入した資料の写真を見て、行った場所と写真の館跡の地形や風景が全く違うことに驚いたのですが、私は北東の台地の方から武田館に着いて、常磐線の西側にあった神社の南西の崖と崖下の水田を見ただけで、実際に館があった常磐線の東側には行っていなかったのですね<(_ _)>
 
ずっと写真にある武田溜や深い谷津はいったいどこにあったのだろうと不思議に思っていたのですが、やっと謎が解けました。もう一度行ってみれば地形がよく分かり、もっとたくさんのものが見えるかもしれません(^o^)
 
現在の湫尾(ぬまお)神社前の道路は、往時は深い切り通しで稲荷谷津に連結し、神社域を囲んでいた濠だったのだそうですが、神社の前の道までは行ったのに、その時は切り通しにも濠の跡にも見えませんでした。「視覚を真に司るのは眼ではなく知識」のようですから、それを知った上で改めて眺めれば、切り通しや濠の痕跡を見つけられるかもしれませんね(^_-)
 
武田氏館略図

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現在は美田となっている南西側の水田地帯は海抜57m位ですから、この水田と那珂川は縄文時代には海であり、古代~中世にも崖下や東西の谷津はまだ海だったと思われます。この「塙」は遠浅の海に突き出した舌状の武田台地の端(はな)であり、常磐線は、この台地の端の館跡と神社の間を切り通して敷設されているようです。
 


塙って? 鹿嶋の「塙」

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2017.5.25 塙って? 鹿嶋の「塙」

 

ひたちなか市武田の「塙」は遠浅の海に突き出した標高20mの舌状台地の端(はな)だったことが分かったので、それでは鹿島の「塙」はどうだろうと地図で調べてみると、鹿嶋の塙と塙神社もやはり水田に面した標高30mの同じような地形のようですから、ここも海に面した台地の端(はな)だったようです。

 

そこで改めて「塙」という文字について調べてみると、

 

音読みは「カク」・訓読みは「はなわ」「かたい」で意味は「山の突き出たところ」のこと

 

だそうですから、「塙」という地名は、やはり台地の突端(端・鼻)の周囲より小高い地形を表しているようです。

 

このところあちこちで中世の城跡を見て、それらがみな低地(水田地帯)に面した小高い所にあり、そこから見る景色もよく似ていると思っていたのですが、みな同じような台地の端(はな)=「塙」に造られていたからだったのですね(^o^)

 

例えば、ひたちなか市武田の武田氏の城館のあった武田台地の端と、その頃この武田氏(源氏)と争っていた常陸大掾(平氏)の吉田氏の城館のあった水戸市の吉田台地の端は↓のように地形がそっくりです(^o^)

 

武田氏館と湫尾神社があった武田台地の端(はな) 

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吉田氏館と吉田神社があった元吉田の台地の端(はな)

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武田台地の端に円墳と思われる塚があったように、吉田台地にも吉田古墳(7世紀半ば築造の八角形墳)がありました。

 

吉田古墳

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同じ頃に吉田太郎(常陸大掾・平氏の一族)の弟の鹿島三郎の鹿島城もよく似た所に造られていました。こちらは下から地形を写した写真はないのですが、台地の端(はな)の城跡から見下ろすと、かつては海だった水田地帯が崖下に広がる景色は同じです。

 

鹿島城址から  崖下は霞ヶ浦まで続く水田地帯です

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吉田神社から  こちらの崖下の平地には、現在はびっしりと建物が建っていますが、かつては↑の吉田氏館の写真のように、那珂川まで続く水田地帯だったのです。 


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鹿島城のある台地の端(はな)の地名は「城山」で、「塙」ではないのですが、塙神社がある所の地名は下塙」なのですよね。でも、「下塙」があるなら「塙」か「上塙」もあるはずと探してみたのですがありませんでしたから、ひょっとすると、鹿島城が造られて「城山」になる以前、この台地の端(はな)は「上塙」だったのではないでしょうか(^_-)。確かめることはできなかったのですが<(_ _)>

 

そういえば板橋区にある千葉氏の赤塚城址も、武蔵野台地の端(はな)のよく似た所にありました(^o^)

 
 
 

「塙」って? 「塙」と「花輪」

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2017.5.27 「塙」って? 「塙」と「花輪」
 
「はなわ」といえば、東関東自動車道の谷津バラ園の近くに「花輪」というインターチェンジがあるのですが、そのI.Cがある所の地名は「谷津」です。私はそこを通る時、「花輪」って何だろう?地名なのだろうか?と疑問に思っていました。
 
普通は駅名とかI.C名は、そこで下りればそこへ行けるということが分かるような名前が付けられていますよね。渋谷とか代々木とか四谷とか新宿とか・・・・でも地図を見てもその付近に「花輪」という地名はないのです。このI.Cから近いのは船橋や谷津なのですが、「花輪」では、谷津や船橋に行くのにここで下りればいいということは土地勘のない人には瞬間的に分かりませんよね。なぜこのI.Cには付近の地名とは関係のない「花輪」という名前が付けられているのだろう?と私は不思議に思っていたのです。
 
このI.Cは谷津干潟のすぐ近くにあるのですが、調べてみたら、ここは谷津遊園があった所で、1982年(昭和57年)に谷津遊園が廃園になったあとも地元の要望でバラ園が残されたのだそうです。でもバラ園があるからI.C名が「花輪」になったとは思えませんから、ひょっとするとここは昔「塙」という地名だったのではないかと思い地形を調べてみました。
 
京成電鉄の谷津遊園駅(現・谷津駅)の南側にあった谷津遊園自体は、大正時代には塩田として使われていた海岸地帯で、埋め立て地だったそうですが、この線路の北側は台地になっていて、京成電鉄はこの台地の裾を通っていますから、ここは大正時代まで海(干潟)に面した台地の端(はな)だったのです。
 
海や塩田には地名はなかったでしょうから、古くから陸地だった線路の北側の台地の端(はな)の地名が「塙」で、地名としては違和感のある「花輪」はフラワーリングではなく、「塙」の当て字なのではないでしょうか(^o^)
 
現在は台地の上も「谷津」という地名になっていますが、台地の上が谷津であったはずはありませんから、これは、谷津遊園の跡地が住宅地になってからの行政区割りの地名であろうと思います(^o^)
 
地理音痴の私は、この「花輪I.C」を地図上ですぐに探すことができなかったので<(_ _)>、「千葉・花輪」で検索してみたら、I.Cからかなり離れた「千葉県千葉市中央区花輪町」が出てきたので、この「花輪」もフラワーではなく地形を現す「塙」なのではないかと考え、ついでにここの地形も調べてみたところ、ここもやはり周囲より小高くなった標高20m~30mの台地の端(はな)でした。「花輪」はやはり台地の端(はな)の「塙」のことのようです(^o^)
 
ところで先日テレビで、最近茨城が外国人観光客に人気になっていると聞いて、「なんで?どこが?」と思ったのですが・・・・・


茨城空港が出来てアクセスが良くなったということも一因のようですが、ひょっとすると、聳え立つ高山も深い渓谷もなく、火山がないから名湯も無いし、誰でも知っているような有名観光地もないけれど、虫麻呂が『常陸国風土記』に「常世の国のようだ」と記した豊かな穏やかさが見直されてきたのかもしれませんね(^o^)
 
牛久出身の稀勢の里は残念ながら休場になってしまいましたが、今場所活躍している高安も常陸国の土浦出身です。「常陸の時代」が来たのかな(^o^)
 
一月の優勝旗
 
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5月の優勝旗
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残念ながら高安は今日負けてしまい、五月場所の優勝者として名前が記されるのは白鵬に決まったようです。白鵬は全勝して優勝に花を添えることができるかな?



塙って? 塙と花輪2

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2017.5.28 塙って? 塙と花輪2
 
駅名とかI.C名は、そこで下りればそこへ行けるということが分かるような名前が付けられているのが普通なのに、谷津と船橋の境にあって「花輪」という場所はないのにI.C名が「花輪」なのはなぜだろう?と疑問に思い、「花輪」は地形を現す「塙」で、この辺りの地名だったのではないか?と考えたのですが、今日また一つ台地の端(はな)の「花輪」を見つけました\(^o^)/。
 
少し前に千葉生まれの人から、千葉市には「加曾利貝塚」という大きな貝塚があって、小学校の遠足で行ったことがあるという話を聞いて、そこへ行ってみたいと思いました。博物館などで「加曾利式」という表記を見たことがあって、「加曾利」っていったい何だろう?と思っていたのです(^_^.)
 
「加曾利」が地名であって日帰りで行ける千葉市にあることが分かったので、どこにあってどんな地形なのか見てみたい、そこに大きな貝塚があるのであれば、縄文時代の千葉市はそこまで海だったに違いないと考えたのです(^o^)
 
で、どこにあるか探してみると、「貝塚I.C」のすぐ近くでした。土地勘がなくても地理音痴でも「ここで下りれば貝塚に行ける」ということが分かるネーミングではありませんか\(^o^)/。駅名やI.C名はこうでなくっちゃ(^o^)
 
行ってみてわかったのは、ここも台地の端(はな)であるということでした\(^o^)/。
 
そして、この台地の端(はな)には日本最大だという加曾利貝塚の他にも草苅場貝塚・荒屋敷貝塚・台門貝塚・宝導寺台貝塚・矢作貝塚・花輪貝塚などたくさんの貝塚があることが分かりました(^o^)/。

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緑色の丸が貝塚です。

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この説明板には、「加曾利貝塚は海から6.5km離れた場所にあり、川を6.5kmも遡って運ばれた貝が、この台地上に日本最大の貝塚として残されている」と記されていますが、古代人がそんな非効率的なことをしていたはずはありませんよね。
 
輸送手段が発達した現在でも、漁をする人や、魚介類を扱う人たちは海辺に住んでいるではありませんか。ましてや輸送が全て人力で冷蔵や冷凍技術もなかった頃に、海から遠く離れた所に住んで、わざわざ大量の貝や魚を内陸まで運んでいたはずはありません(^_-)
 
この台地の下が貝の豊富に採れる海(干潟)だったから、縄文時代の人々はこの台地の端(はな)に集落を作って暮らし大量の貝殻を残したのです(^o^)
 
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「毎日6.5kmの海まで往復して大量の貝を運んできていたのだろう」というのは、「悠久の大地は変わらない」と思い込んでいる学者さんたちの誤った解釈であり、全く根拠のないものだと私は思います(^o^)

この台地の端(はな)にある「花輪貝塚」もフラワーではなく、「塙の貝塚」でしょう。
 

「塙」って? 塙と端と鼻

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2017.5.29 「塙」って? 塙と端と鼻

 

台地の端(はな)といえば、高崎市の岩鼻や群馬県の板鼻町(現・安中市)や千葉市の猪鼻などの「鼻」もやはり台地の端(はな)のことのようです。

 

千葉市の中心部の標高20mの猪鼻は、中世には千葉氏の居城・千葉城(猪鼻城)があったところで、現在は千葉大学医学部、看護学部、薬学部のキャンパスおよびこれに附属する千葉大学医学部附属病院、亥鼻公園、千葉市立郷土博物館、図書館、文化会館等の公共施設になっていますが、この猪鼻は下総台地から亥の方角に突き出した舌状台地だそうですから、やはり古代には貝塚や古墳が造られ、中世には城が造られた舌状台地の端(はな)だったのです。

 

千葉城址に建っている郷土博物館の上から南の方向を見ると・・・

 
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千葉城のあった台地の端(はな)である「猪鼻」の崖下に広がる平地は、現在の海までびっしりと建物が続いていますが、古代~中世にはこの平地は海だったのです。この景色は吉田神社から見下ろした崖下の平地とそっくりですね(^o^)


吉田神社から見下ろした平地 
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 千葉大医学部・千葉大病院は、猪鼻の郷土博物館の東側にあります。その方向を見ると・・・
 
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 この舌状台地の北側(千葉大医学部・千葉大病院の向こう側)の崖下には都川が流れていて、この川を見下ろす北側の崖上にもやはり古墳群があったようです。
 

現在は医学部の構内になっている台地の縁の七天王塚

 
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この説明板には、「猪鼻城の大手口に北斗七星形に7つの塚が配置してあった」と記されていますが、古墳は中世の猪鼻城より何世紀も前の古墳時代に造られたのですから、もしこの塚が古墳なのであれば、城のために北斗七星形に配置されたはずはありません(^_-)

 

それではこれらの塚は古墳ではないのだろうかと思って、「千葉大の古墳」を検索してみたら、医学薬学研究棟建設予定地からは前方後円墳が発見されているそうですから、やはり七天王塚は城のために造られて北斗七星形に配置された塚ではなく古墳で、この舌状台地には古墳群があったのです(^o^)

 

貝塚や縄文遺跡や古墳群や城跡があり、現在は公共施設や大学になっているこの「猪鼻」は、やはり古くから人が住んでいた海に突き出した舌状台地の端(はな)の「塙」だったようですね。

 

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