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タケミカヅチノミコトの墓2

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2017.3.29 タケミカヅチノミコトの墓2
 
鹿島にタケミカヅチの墓(古墳)がないのは、崇神天皇の息子のタケミカヅチノミコトは東征後に那珂国(なかのくに)の初代国造になって現在の水戸市に住み、そこで亡くなったからで、タケミカヅチは自分の支配地だった那珂国の、茨城県内では最大級の前方後円墳である墳丘長136.5mの愛宕山古墳(水戸市愛宕町)に葬られているのです。
 
愛宕山古墳 

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高さは10mあり 巨大な古墳です
 
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東征以前の大国主の時代には、鹿島は中臣氏の祖先の「三笠神」を祀る祖廟のある中臣氏の領地であり、東征軍としてやってきたタケミカヅチはここに陣を置いて霞ケ浦を挟んでミカホシノカカセオらの東国軍と戦ったのです。
 
大国主の連合を裏切って天津族の東征軍に味方した中臣氏の祖先の大中臣神聞勝命(おおなかとみかむききかつのみこと)には、東征完了後に崇神天皇から多くの品が褒賞として与えられるとともに、鹿島を領地として安堵されたことが『古事記』に記されていますし、鹿島はその後もずっと中臣氏の領地であったことや、鹿島神宮の神主は代々中臣連(なかとみのむらじ)が継いできたことは中世の領地争いなどさまざまな記録にも残されています。
 
そして、鹿島に残っていた那珂国造(タケミカヅチ)の領地は、中大兄が鎌足の協力でクーデター・乙巳の変に成功した後、褒賞(神領)として鹿島神宮(中臣氏)に与えられ、その社殿は20年毎に朝廷によって建て替えられ、毎年朝廷から「鹿島使」と呼ばれる奉幣使が遣わされていたのです。
 
鹿島と中臣氏の関係については「古代の地形から『記紀』の謎を解く」の第5章の2「鹿島と中臣氏」をご参照ください。
 
鹿島の鎌足誕生地にある鎌足神社
 
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そういうわけで、鹿島はタケミカヅチやその子孫たちの支配地ではなく中臣氏の領地だったので、タケミカヅチの墓や子孫がタケミカヅチを祀る祖廟は鹿島にはないのです。中臣氏が神官を務めてきた「建前としてタケミカヅチを祀っている鹿島神宮」は『古事記』の神話に合わせて作られたのかもしれません(^_-)
 
中臣氏の本来の祖廟は「地主神・三笠神」を祀る三笠神社として鹿島神宮本殿の東脇に祀られているようですが、『鹿島神宮誌』によれば、このカミサマは一体何なのか、どうしてここに祀られているのか全く分からない「謎」になっているのだそうです。
 
けれど、中臣氏にとって本来祀るべきなのは「赤の他人のタケミカヅチ」ではなく「祖先の三笠神」なのですから、これは「謎」どころか、非常に論理的な処置なのですよね(^o^)




タケミカヅチの墓3

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2017.3.30 タケミカヅチの墓3
 
初代那珂国造となったタケミカヅチの墓は、水戸市愛宕町にある茨城県で最大級の古墳である愛宕山古墳であり、兄で毛野国の初代国造になったトヨキイリヒコの墓は、群馬県高崎市倉賀野町にある5世紀初頭頃に築造された墳丘長171.5m・高さ14.1mの浅間山古墳であろうと思います。
 
そして、タケミカヅチの子孫がタケミカヅチを祀ってきた祖廟は、水戸市飯富町にある「初代那珂国造・建借馬命」を祀る大井神社のようです。カミサマのお墓は、『鹿島神宮誌』が記しているようにそのカミサマを祀る神社のある地に造られていたのです\(^o^)/。そのことは、神社庁から派遣されてくる神職はともかくとして、子孫である世襲の神職にとっては常識なのでしょうね(^_-)
 
大井神社
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大井神社由緒
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ここには、「建借馬命は、もとは肥の国の意富臣(おふのおみ)で神武天皇の息子の神八井耳命の子孫であり、崇神天皇の時代にトヨキイリヒコの命を奉じて当地にやってきて那珂国の初代国造になった」ことが記されています。
 
「神話」と「神武の東征」は、1000年水増しした部分に『古事記』が創作した事実無根のオハナシで、実際に東征したのは4世紀末の崇神ですから、ここまでのことと総合すると、この建借馬命が「神代に大国主に国譲りをさせたタケミカヅチ」であり、「神武天皇の息子の神八井耳命」であり、実際は崇神天皇の息子でトヨキイリヒコの弟であって、鹿島神宮の祭神となっているけれど鹿島には墓(古墳)がない「タケミカヅチノミコト」だということになりますね(^o^)
 
この神社のある「飯富村(現・町)」は地形に由来する地名ではないので、地名としては違和感があったのですが、由緒に「大井神社の元は意富比(おほい)神社であること、意富は飫富とも書き、これが飯富の語源であること、建借馬命はもとは肥の国(佐賀・熊本)の意富臣(おふのおみ)であること」が記されているのを見て全てが論理的に繋がりました\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/。


建借馬命の曽祖父は崇神天皇の伯父の意富比古命(大毗古命・大彦命・オオヒコノミコト)なのです。
 
天津族が東征を始める前、狗奴国が邪馬台国連合を滅ぼして九州統一王朝を作り、大宰府に後に「遠の朝廷(とおのみかど))と呼ばれた朝廷を開いた頃に、崇神天皇の伯父の意富比古命が領地としていたのが肥の国(佐賀・熊本)だったのでしょう。その宮は佐賀県の鹿島にあったのではないでしょうか。佐賀県と茨城県が「鹿島市」の市名を争った時に佐賀県が勝って「鹿島市」を名乗り、茨城県の旧鹿島町は「鹿嶋市」を名乗ることになったのは、佐賀県の方が古かったからです(^o^)
 
実際は「佐賀県に鹿島市がすでにあるのだから、後から同じ市名を付けられては困る」ということだったのでしょうけれど、「佐賀県の鹿島市が先にあった」ということの背景には上記のような3世紀からの歴史があるのです。
 
歴史は、歴史学者さんたちが多用する「・・・と考えればよい」というような恣意的なつじつま合わせの解釈で成り立っているのではなく、論理的な因果関係で繋がっている途切れることのない流れなのです(^o^)
 
全国にたくさんある「太田」は天津族の本貫の地である百済の「太田・テジュン」に由来するのではないかと推理したのと同様に、地形に由来しない「鹿島」も朝鮮半島に由来する地名なのではないかと推理したのですが、これはまだ確認できていません。
 
 

タケミカヅチの墓4

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2017.3.31 タケミカヅチの墓4

 

2009年にこのブログを始めたばかりの頃、なぜ韓国では大統領を務めたほどの人がみな犯罪者として告発されてしまうのだろう?と疑問に思い、2011年に「儒教体制」に問題があるのではないか、その体質が変わらない限り選挙で新しい大統領が選ばれてもまた同じことになるのではないかと考えたのですが、やはりまた朴権恵大統領が収賄などで逮捕されることになってしまったようです<(_ _)>

 

北朝鮮では権力の継承を巡って異母兄弟殺しや対立陣営の粛清が古代そのままに続いていますし、歴史って本当に同じことの繰り返しなのですね。この事件はウヤムヤのまま政治的な幕引きとなるようです。

 

古代史に戻ります。崇神天皇の伯父でタケミカヅチの曽祖父だった意富比古命(大彦命)は、別名や別字での表記がとても多いので混乱の元なのですが<(_ _)>、東征時には摂津の三島地方を本拠として戦い、後に三島を領地とする三島の支配者「三島溝咋命(ミシマミゾクイノミコト)」になっていますから、その墓は三島に造られているはずです。5世紀に築造された全長226mの三島の太田茶臼山古墳が意富比古命の墓でしょう。

 

この「太田茶臼山古墳」を宮内省陵寮は「三島藍野陵」であるとして継体天皇陵に治定しているのですが、継体天皇は6世紀の天皇で、亡くなったのは欽明天皇がクーデター(辛亥の変)を起こして政権を取った531年なのですから、5世紀に造られた墓が継体天皇の墓のはずはありませんよね(^_-)。宮内省陵寮(神祇官たち)の治定って、「嘘ばっか」なのです(^o^)

 

三島の「太田茶臼山古墳」

 
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大井神社の由緒には「初代仲(那珂)国国造の建借馬命の墓である愛宕山古墳は三島山にある」とも記されていました。実際は愛宕山古墳が造られている場所は山ではなく、当時は海だった水田地帯から立ち上がる標高20mの洪積台地の縁なのですが、下から見ると樹木の茂る20mの急斜面のハケは山のように見えるのですよね。


「真間の手児奈伝説」の残る千葉県市川市の真間山もやはり山ではなく、同じような20mの洪積台地の縁でしたから、当時はこのようなハケを「山」と言っていたようです。

 この「三島山」の名は、意富比古命の摂津国の領地の三島から、「大井(意富比)神社」の名は意富比古命から、「鹿島」の名は意富比古命の肥の国の領地の鹿島から、「飯富(いいとみ)村」の名は意富から付けられた地名だということでしょうか(^o^)。そういえば、愛宕山古墳の下を流れている川は「那珂川」という名なのですが、那珂川は佐賀にもありますね(^o^)
 

不比等は、鹿島神宮の祭神を「鹿島の三笠山」から奈良の春日大社に遷して藤原氏の氏神とし、その春日大社を造った場所を「三笠山」と名付けたようですが、地名には何かしら根拠があるのですよね(^o^)。でも、三笠山に造ったのに「三笠大社」ではなく「春日大社」なのは、この山が「三笠山」になる前は「春日山」だったからでしょうか(^_-)

 

グーグルの地図ではこの山は「若草山」になっているのですが、拡大すると「花山(奥山)」と出てきますし、南の方は「春日山」となっています。西の方には手向山八幡宮がありますから、この山は手向山とも呼ばれているのでしょうか?私は今でも若草山と、春日山と、三笠山(御蓋山?)がどこのことを言うのかよく分かりません<(_ _)>



タケミカヅチの墓5

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2017.4.1 タケミカヅチの墓5

 

大井神社の由緒には、祭神は(『古事記』の荒唐無稽なカミサマではなく)崇神天皇の時代にやって来て那珂国の初代国造になった「建借馬命(タケカシマノミコト)」、つまりニンゲンであることや「臣」、つまり天津族の王族であることがはっきりと記されていました(^o^)


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このように、何の根拠もない「作り話のカミサマの話」ではなく、1500年以上もの間「歴史」としてこのことを連綿と伝えてこられたのであればここの宮司さんは諏訪の神長官の守矢氏や高麗神社の宮司の高麗氏と同じように、祭神・建借馬命(=タケミカヅチノミコト)の子孫で、5世紀頃から宮司を世襲してこられた方かもしれないと考えたのですが、この時はお出かけになってしまったということで、お聞きすることはできませんでした(T_T)

 

↑の記事に載せてある大井神社の境内に並んでいた小さな社がなんなのか、氏子さんたちは宮司さんが造っているということ以外は何も知らないということだったのですが<(_ _)>、その後訪ねた那珂市歴史民俗資料館で「藁奉殿」というもののようだということが分かりました。でも、それが何のために作られ、どう使われていたのかは資料館でも分からないということでしたが<(_ _)>

 

大井神社の小さな社

 
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歴史民俗資料館に展示されていた藁奉殿

 
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でも今なら分かります\(^o^)/。木や藁で作られた小さな社は、石で恒久的な社が作られるようになる前の祖先を祀る廟だったのです。それを確信させてくれたのは、2016年の藤森照信氏のコラムでした。藤森氏が一族の古老に頼んで作ってもらったという昔の社は、大井神社の小さな社にそっくりな↓のようなものだったのです。


1950年頃まで(?)諏訪で造られていた社


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藤森氏は1946年のお生まれですから、1950年頃にはもう石造りのものに変わってしまっていたのでしょうね。

 

出雲の熊野大社の鑚火殿や、諏訪の前宮にあったという精進屋や、1950年頃までは6年毎に作り替えていたという諏訪の家々の社を見ると、この形の祖廟はスサノオが渡来して来た頃から造られていたようですから、スサノオが朝鮮半島から持ち込んだものなのかもしれません(^_-)

 

このような古い祖廟の形が連綿と伝えられていて、今も作っていらっしゃるという大井神社の宮司さんは、やはり5世紀頃から宮司を世襲してこられた建借馬命の子孫なのかもしれません(^o^)

 

2011年にpcat2sさまから、「ひたちなか市に甕星香々背男(ミカホシノカカセオ)の研究をされている方がいて、香々背男の子孫は久慈川沿いに北進して福島・茨城県境(棚倉町)あたりに移り住んでいたようです」というコメントを戴いた時、やはり香々背男は実在の人で、香々背男と戦ったタケミカヅチが水戸に居を定めたのは、その周辺にはまだ香々背男の勢力が多く残っていたからだったのではないかと考えたことを思い出しました。

 

石岡や水戸の周辺、水戸から北の常陸太田・大甕(おおみか)・日立にかけては、香々背男の足跡や伝承や星宮神社がたくさん残っているのです。

 

カカセオについては「古代の地形から『記紀』の謎を解く」の第5章の1「甕星香々背男とは?」をご参照ください。



歌姫明神

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2017.4.2 歌姫明神

 

[ どすこい母ちゃん ]さまが教えて下さった小野崎城址と歌姫明神へ行ってきました\(^o^)/。

 

歌姫明神は、県道41号線を曲がってすぐの所だったのですね。羽鳥道をキャンプ場まで行ってみたのは2007年だったのですが、気付かずに通り過ぎてしまったようです。


当時は『常陸国風土記』の記述にある地形を確かめたくて、土地勘もないまま走り回っていたのです(^_-)。

 

おかげさまで今回は見つけることができ、車道ではなく、本来の羽鳥道の起点を見つけることもできました(^o^)

 

歌姫明神

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桃山中学校前の道標 正面に筑波山がありました(^o^)

 
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桃山中学校

 
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中学校の向こう側には古墳もありました。


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歌姫明神2

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2017.4.3 歌姫明神2

 

昨日は、靖国神社の標本木が満開になったということでしたが、筑波周辺の桜はまだ蕾で、小田城址の桜もまだ↓くらいの咲き具合だったので、お花見も兼ねて、という目論見はハズレてしまいましたが(^_^.)、それを補ってあまりある発見がいろいろありました\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/。


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歌垣が行われていたという伝承のある歌姫明神の場所が分かったので、それでは、やはり歌垣の伝承のある筑波山南麓の夫女が原と筑波山北西麓の歌姫明神のどちらで歌垣が開かれていたのだろう?と考えてみました。

 

歌姫明神の社がある場所は標高70mで周囲より小高くなっていましたが、平野を通る県道41号の辺りは50mで、この水田地帯は、古代には海だった騰波ノ江の方に向かってだんだん低くなっていますから、今は内陸の山裾になっているここも、古代には霞ヶ浦に続く海に面した交通の便の良い場所だったようです。

 

『常陸国風土記』には「郡の西十里に騰波の江あり。長さ二千九百歩、広さ千五百歩なり。」と記されていますから(^o^)、常陸国司になった藤原宇合に随行して高橋虫麻呂が石岡の国府にやってきた8世紀には、現在の下妻市騰波の江周辺の広大な水田地帯はまだ陸地ではなかったのです。

 

騰波ノ江駅と周辺の水田地帯

 
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海が退いて陸地が増えていくにつれて行政区分も変わっていったようで、「騰波の江」が海や湖だった頃には新治郡の一部だった真壁は、後に分離独立して白壁郡(真壁郡)になっていますから、歌姫明神は分離した後の白壁郡(真壁郡)の歌垣が行われていた所だったのかもしれません。『常陸国風土記』に記された古代の新治郡は、近世や現代の新治郡とは全く違うのです。

 

ここまで見てきたところでは、支配者の宮はその地方の水陸交通の要衝後の地に置かれ、宮の跡地には公共施設や学校が作られていることが多かったのですが、ここでは桃山中学校のすぐ西側に古墳があり、古墳の西には霞ヶ浦に注ぐ桜川が流れていて、学校のすぐ北側には神社がありました。そして羽鳥道もここから始まっていましたから、桃山中学校は真壁郡が分離独立した後の支配者の宮跡で、吾妻山古墳はその墓、神社は被葬者の祖廟だったのではないでしょうか(^o^)この古墳は前方後円墳ではなく直径20mほどの小ぶりな円墳のようですから、築造時期も下るようですし

 

桃山中学校の標高は34mなので、低すぎるのではないかと思ったのですが、真壁郡が分離独立したのは時代が下ってからのようですから、34mはもう乾いた土地になっていたということなのでしょうね。


桃山中学校の前から見た筑波山


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歌姫明神3

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2017.4.4 歌姫明神3

 

高橋虫麻呂が参加した歌垣は、歌姫明神だったのか夫女が原だったのかということに関しては、虫麻呂は国司に随行して官人として石岡の国府にやって来たのですから、虫麻呂が視察に出向いたのは平沢官衙だったのではないでしょうか。虫麻呂は那珂郡の郡衙(現在の茨城大学)にも出向いて、「曝井(さらしい)」の歌を残していますしね。

 

曝井

 
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夫女が原は平沢官衙の背後の低い山の向こう側なのです(^o^)


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虫麻呂はこの筑波の歌垣では「鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津の 其の津の上に・・・・」という歌を残しているのですが、夫女が原(ぶじょがはら)の小字名は「裳萩津(もはきつ)」だったそうで、この「裳萩津」が虫麻呂が歌に残した「裳羽服津(もはきつ)」のようですから、虫麻呂が参加した歌垣は真壁の歌姫明神ではなく、筑波山南麓の夫女が原で行われたものでしょう(^o^)。当時、麓の水田地帯は豊浦と呼ばれる海で、裳萩津は津(港)だったのだろうと思います。

 

当時は海(豊浦)だった水田地帯 


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筑波山の手前の丘(低い山?)に「筑波ふれあいの里」があって、ここに虫麻呂の歌を刻んだ石碑がありました(^o^)


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水田のこちら側には、インドからお姫様が流れ着いたという「金色姫伝説」の蚕影山神社があり、地名は「豊浦」です(^o^)

 

豊浦に建つ「老人医療施設 豊浦」 この突き当りの山に蚕影山神社があります。

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筑波ふれあいの里の付近には縄文時代からの遺跡や古墳が多くあり、現在「筑波ふれあいの里」となっている辺りには古代の条里制遺構もあったそうですが、1979年(昭和54年)の耕地整理で失われたのだそうです<(_ _)>

 

この虫麻呂の歌を根拠に(?)、「歌垣とは若い男女の求愛の場だった」とか「東国の歌垣でやっていたのは、人妻に吾も交はらむというようなことだった」といった解釈が学者さんの間では「定説」になっているようですが、私はこれは全くの間違いであると思います。その理由は2015.1.71.12の「歌垣15」を御覧ください。



 

小田城

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2017.4.5 小田城

 

4.2には、矢田部i.c~小野崎の八坂神社~小野崎城址~小田城址~平沢官衙遺跡~歌姫明神~桃山中学校という行程で回ってみたのですが、やはり筑波の周辺は本当に気持ちのいい所ですし、行くたびにいろいろな発見があるんですよね(^_-)

 

2007年に「つくば道」に行ってみた時、道に出ていた「平沢官衙→」という表示を見て、「それ、なに?」と好奇心から行ってみたのですが(^o^)、ヒバリが上がりウグイスが鳴き交わすその景色がすっかり気に入ってしまい、その空気に浸りたくて何度か出かけているうちにその周辺の様子や歴史がだんだんに分かってきました(^o^)

 

そこで途中にあった小田城址にも行ってみたのですが、その時は一部に小高い所と大きな五輪塔があっただけで他には何も無かったので、あまり重要ではない小さな城だったようだと思いました(^_^.)

 

2007年に見た小田城址

 
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その後、2011年に行ってみた時には、「史跡公園」に整備中ということで入れなくなっていたのですが、囲いの向こうに見える部分は2007年の時と何も変わっていなかったので、囲いを作って説明板の設置でもするのだろうと思いました<(_ _)>

 

2011年の小田城址 

 
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今回、小野崎城について調べていたら、小野崎城は小田氏の傘下にあったこと、小田氏は大きな勢力を持っていたことが分かったので、小野崎城から小田城に回って、どんな公園になったのか見てこようと思ったのですが、行ってみたら10年前とは全く様子が違っていたのでビックリしました。

 

小さな空地だと思っていた所が高い土塁と濠で囲まれ、城跡が復元されていたのです(^o^)。以前「これだけ?」と思った小高い所は、城の隅のほんの一部で↓の涼み台と記されている部分でした(^o^)

 

城跡を囲む土塁

 
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小田城鳥瞰図 

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現在の涼み台 

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そういえば10年の歳月は、官衙の建物にも流れていて、屋根が少し傷み始めていたようです<(__)>


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小田城2

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2017.4.6 小田城2

 

小田城址のすぐ近くには出土物や説明を展示する案内所もできていて、以前城跡にあった大きな五輪塔はここの駐車場の隅に移されていました。ここは去年の4月にオープンしたのだそうです。

 

案内所 歴史のひろば 

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駐車場の隅に移された五輪塔

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左側の道は昔の筑波鉄道の線路の跡で、道沿いに植えられた桜と筑波山を見ながら走る気持ちの良いサイクリングロード(りんりんロード)になっています(^o^)。筑波鉄道が城跡の真ん中を横切って走っていて、遺構は線路の下に眠っていたのでいままで残っていたのでしょう(^o^)

 

小田氏は、最盛期には↓のような広範囲を支配していたのだそうです(^o^)

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案内所にあったパンフレット 

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そんな大勢力だったにしては城跡が小さいのでは?と思ったのですが、史跡指定範囲は南北550m・東西450mですが、実際は北側の山(前山)の上にも濠跡や土塁跡などの城郭の遺構があり、全長3km以上もの外郭があったようです。

 

1600年頃の小田城 

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前山城址が残る小田城北側の前山 

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後ろは標高461mの宝篋山。地元では「小田山」と呼ばれていて、山頂からは東に霞ヶ浦と太平洋(鹿島灘)、南西に関東平野を一望でき、晴れていれば富士山、筑波山の先には榛名山・赤城山・日光連山と360度のパノラマを楽しめるそうです(^o^)
 

初めて行った時には涼み台を見て、見晴らしのきかない平地なのになぜここに城を?と思ったのですが、やはり戦国時代の城は周りの状況がつかめるような場所に造られていたのですね(^o^)



藤沢城

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2017.4.7 藤沢城

 

2011年には、矢田部i.cからではなく、土浦北i.cから125号線で「つくば道」に向かったのですが、平沢官衙や小田城の近くを通るこの道は古い街道のようで、途中にも城下町のような街並みがあり、そこには城跡があるのではないかと思われる小高いところがあったので行ってみました(^o^)

 

新治ふるさとの森の上から 

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「新治ふるさとの森」になっていたそこは、地元の方のお話では「城跡ではない」ということだったのですが、そのことを思い出したので改めて藤沢城について調べてみると、藤沢城は小田氏の支城で、面積約9900㎡、東西500m×南北500mの規模だったそうです。城跡のある場所の地名は「大字 城の内」ですから、そのまんまですね(^o^)。古い地名や字(あざ)名は古代の地形や歴史を知るための本当に良い手がかりなのです\(^o^)/。

 

城跡ではないかと思って行ってみた所は、長さ200m、比高15mほどの半島状になった場所で、ここには4代目小田時知の三男・時義の建てた「岡の宮館(小神野宮館)」が10代の経憲の頃まで300年間あったそうですが、規模から見て城というより館だったようです。

 

ここには鹿島神社があるのですが、初代の時義はこの小神野宮(鹿島神社)を深く信仰していたので「小神野宮氏」を名乗ったのだそうです。ということは、4代目小田時知の息子の時義が「初代・小神野宮氏」になったということですね(^_-)

 

ちょうどその頃、私は「氏」とは何か?「姓」とは何か?ということについて考えていて、姓とは支配地や居住地の地名だったのではないかと推理していたのですが、その推理を思いがけず筑波周辺で確かめることができた訳です(^o^)/。

 

小田城を造って初代城主になったのは源頼朝の家臣だった八田知家なのですが、小田を領地とした八田知家がここで「初代・小田氏」になっていたのです(^o^)

 

小田氏系図 

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八田知家は子だくさんだったのですね(^o^)。知家はここで小田氏になり、その嫡子は代々小田城主となって小田氏を名乗っていますが、それ以外の息子達はそれぞれ別の場所へ散っていったようです。カッコ内の地名は、それぞれが住んだ土地(領地)の地名なのでしょうね。

 

4代目の小田城主は直系の時知で、小田氏を継いで5代目城主となったのは時知の嫡子の宗知であり、三男の時義は藤沢の小神野宮(鹿島社)のある場所に館を建てて「初代・小神野宮氏」になったというわけですね(^o^)

 

この小神野宮氏は、後に甲山に城を築いて藤沢から移っていったそうなので、甲山がどこにあるのか探してみると藤沢城の5kmほど北にありました。小神野宮氏の子孫が甲山付近の領地を分けてもらってそちらの領主になったということでしょうか。


その辺りの字名は「大志戸」となっていますから、甲山へ移った「小神野宮氏」は「大志戸氏」になったのかもしれません。甲山(新治村大志戸字三十番神)には館の痕跡が残っているようです。甲山山頂にある「三十番神社」は、元は小神野宮氏が自分の領地に造った祖廟だったのかもしれませんね(^o^)



藤原氏・八田氏・小田氏

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2017.4.8 藤原氏・八田氏・小田氏

 

八田氏は小田に来て「小田氏」になったわけですが、それでは八田氏になる前は何だったのかというと、宇都宮でお坊さんになっていた人もいたようですが、ずっと遡るとその大元は藤原北家ですから「本姓は藤原」だったのですね。知家の姉が頼朝の乳母になっていたので頼朝の信任が厚かったということでしょうか(^o^)

 

小田氏系図 

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知家の三男の知基は(茂木)となっていたので、あれ?茂木は茨城南部ではなく栃木では?と疑問に思ったのですが、知家の兄の朝綱は(宇都宮氏)となっていますから、知家の本家の領地は栃木の宇都宮だったのでしょう。すると知家は藤原秀郷の子孫でしょうか(^o^)。これはまだ確認してはいませんが。


遠くへ行った人や出家した人もいるようですが、これは、長男以外は他家へ養子に出されたり出家させられたりしたからでしょうか。

 

小田城に向かう途中に「大塚家住宅」があったのでそこへも行ってみたのですが、中にいた方がいろいろ説明してくださったので、この家の方なのかなと思ってお聞きしてみると、地元の太田さんという方でご先祖は八田知家の家臣だったとのことでした。

 

そのご先祖は、元は「大田」だったのだそうですが、八田知家が小田に来て「小田氏」になった時、家臣である自分が「大田」を名乗るわけにはいかないということで、点を一つ付けて「太田」を名乗ることにしたのだそうです(^o^)。やはり「姓」は初めからあったものでも、固定していたものでもなかったということが良く分かる具体的なお話だったのですが、地元の方からは資料には無い思いがけないお話や面白いお話を聞けることがよくあるのですよね\(^o^)/。

 

「本姓」と言えば以前、

 

日本人のほとんどは、本姓は「源」「平」「藤原」です。

その他も、ほとんどが皇孫なので、結局、日本人は、先祖を遡ると、神武天皇と藤原鎌足に辿りつくことになります。

 

というコメントを戴いたことがあるのですが、これは全くの誤解で、日本人がみな神武天皇と藤原鎌足の子孫だなどということはあり得ません。明治になるまで庶民、つまり大部分の日本人には「本姓」はもちろんのこと「姓」さえ無かったのですから、本姓から遡ることなど不可能ですし、神武天皇は架空の人物なのですしね。祖先に遡る方法があるとすれば、DNAの解析でしょうか(^o^)

 

では、なぜ日本人はみな神武天皇と藤原鎌足の子孫だというような誤解が生まれたのかというと、文献などに姓名が残っているのは姓や本姓を持っていた支配層の人達だけなのですが、古代に藤原氏が「出自(本姓)が源・平・藤・橘以外の者は支配層に入れない(官位に就くことはできない)という仕組みを作り上げていたからで、そのためそれ以外の人達は、官位に就くためには大金を積んで「本姓」を買わなければならなかったからなのです。

 

例えば秀吉は黄金を積み上げて藤原北家の近衛前久の猶子にしてもらい「本姓・藤原」になることで関白になれたのですし、家康は京商人の茶屋四郎次郎を通して源氏の系図を買い「本姓・源」になったことで三河守になれたのですが、秀吉はその後、「父も母も宮中に仕えていた」という系図まで創ってしまったそうです(^o^)

 

後にその仕組みが崩れてしまってからも、官職の申請書類(?)には形式として源平藤橘のいずれかの本姓を書かなければならないことになっていたそうですから、それをもとにすれば、みな「源・平・藤・橘」の子孫でそれ以外の子孫はいないということになるわけですね(^_-)

 

この慣習は明治まで残っていたようで、明治の元勲になった人たちも藤原朝臣永敏(大村益次郎)・藤原朝臣利通(大久保利通)・源朝臣有朋(山縣有朋‎)というように本姓(?)を記していたようです(^o^)

 

中臣氏・藤原氏

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2017.4.9 中臣氏・藤原氏

 

紀元前の神武天皇は架空の人物ですから子孫などいるはずもないのですが、藤原氏の子孫は現在もたくさんいますね。「本姓・藤原」を買って藤原氏になった人や形式上「本姓・藤原」を名乗った人の子孫も混じっているかもしれませんが(^_-)

 

例えば藤原秀郷には、「実際は下野国史生郷の土豪・鳥取氏で、秀郷自身が藤原姓を仮冒した」という説もあるそうです。系図などはどのようにでも作れるわけですから、本当のところは分かりませんね(^_^.)。旧家と称する人たちは、みな架空のカミサマを祖とする系図を捏造していたわけですし、家康のようにすでにあった系図の最後に自分の名前を書き足すこともできたわけですし、藤原氏の養子や猶子になって「本姓・藤原」になった人もいるわけですし(^o^)

 

人類としての古さ・新しさで言うなら、現在生きている人類(ホモ・サピエンス)はみな同じです。天皇家や旧家の人たちだけが179万年前に降臨してきた別の人類だというわけではないのですから(^_-)

 

藤原秀郷が藤原氏だったのか鳥取氏だったのか私には分かりませんが、藤原氏が鎌足の子孫だというのはウソのようです。歴史学者さんたちが信奉してやまない『記紀』が記した「日本の古代史」は本当に「嘘ばっか」なのです(^_-)

 

「正史」は、鎌足が死の前年に「藤原」姓を賜って藤原氏になったとしていますがこれもウソで、藤原氏になったのは不比等だけであって、鎌足もその子孫も藤原氏にはなっていないようです。

 

鎌足が亡くなったのは669年なのですが、「藤原氏」という氏が登場したのはそれよりずっと後の684年から685年の間だったようです。もし668年に鎌足が「藤原氏」になっていたのであれば、684年に定められた「八色の姓」に「藤原氏」が記されていないはずはありませんよね(^_-)

 

このことに関しては「古代の地形から『記紀』の謎を解く」の第14章「藤原不比等は本当に中臣鎌足の子だったのか?」をご参照ください。

 

もし不比等が、国津族出身の「連(むらじ)」であった中臣氏の子であったなら、天津族が支配層を独占していた朝廷で「位人臣を極め」全ての権力を手中にできたはずはありません。出自(血統)のみが権力を手にするための唯一絶対の条件であり根拠だったのですから。

 

不比等は「連(むらじ)」の中臣氏の子ではなかったのです。684年頃に「藤原」を名乗り始めた不比等が「初代・藤原氏」なのですから、「本姓・藤原」で遡れるのは不比等までであって、藤原氏は鎌足の子孫ではないのです。

 

というわけで、神武天皇の子孫は存在しませんし、鎌足の子孫は中臣氏(後に卜部氏や吉田氏などになっていますが)だけで、「日本人は、先祖を遡ると、みな神武天皇と藤原鎌足に辿りつく」というのは完全な誤解なのです(^o^)

 

因みに『徒然草』の吉田兼好は、鎌足の子孫のようです(^o^)

 
 

お天気がパッとしないうちに桜は終ってしまいそうですね(T_T)。カタクリも終わってしまいそうなので様子を見に行ってみたのですが、雨は上がっていたものの陽射しはなかったので、花はみな閉じていました。もう種になってしまったものもあり、こちらもそろそろ終わりのようです。


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常陸大掾氏と多気氏

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2017.4.10 常陸大掾氏と多気氏
 
小田城に戻ります(^o^)

小田城鳥瞰図
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↑の写真の上方中央、小田城址から真っ直ぐに伸びている「りんりんロード(旧筑波鉄道)」の先の小さな山に「多気城跡」と書いてありますね。ここの地名は「多気(現・北条)」で、多気に造られた城だから「多気城」であり、その城主は多気氏だったのですが、この多気氏も初めから多気氏だった訳ではなく、常陸大掾・平国香から6代目の平惟幹(たいらのこれもと)が多気に移ったので多気氏になった「常陸大掾(ひたちだいじょう)氏」なのです(^o^)
 
それではこの「常陸大掾氏」という妙な名前は何なのかというと、大掾とは役職で、

「常陸大掾氏」とは、常陸国の大掾という地位に就いていた氏のことであり、桓武天皇の子孫の平国香(良望)が常陸大掾の地位に就いて以降大掾職を世襲していたため、その子孫が「常陸大掾氏」と呼ばれていたようです。
 
つまり「多気氏」とは平国香の子孫の「常陸大掾氏」であり、「常陸大掾氏」の本姓は「平」だということになるのですが、国香が大掾の地位に就くまでは、常陸大掾は源護(みなもとのまもる)だったのですから、その時代の「常陸大掾氏」の本姓は「源」だったことになりますよね(^o^)。このように氏や姓や本姓は一筋縄ではいかないのです<(_ _)>
 
その当時、小田を含むこの一帯は多気氏(=常陸大掾氏=平氏)の支配下にあったわけですが、初代多気城主・惟幹から6代目の義幹の時、小田に頼朝(本姓・源)の配下の八田知家(本姓・藤原)が進出してきて、多気城の目と鼻の先に城を築いたのですから、争いにならないはずはなく、いざこざが続いていたようです。
 
小田城址から見た多気山(筑波山の手前の低い山) 小田城は多気城のこんな近くに造られていたのです。 
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この多気城の6代目の城主だった常陸大掾氏の平義幹は、小田氏(八田知家)の讒言によって領地を没収され、その身を預けられた駿河国で死去したのだそうです<(_ _)>

 

常陸大掾氏と多気氏2

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2017.4.11 常陸大掾氏と多気氏2

 

2007年に、筑波山神社まで直線で登るという「茨城険道139号」の「つくば道」を実際に見てみたいと思って出かけて行った時、北条の町の地図に「多気太郎の墓」があったのですが、当時は知識がなかったので、「多気太郎」が誰でいつ頃の人なのか、なぜ北条に墓があってそれが史跡になっているのか全く分からず、地元出身の政治家か岡本太郎のような有名人なのかな?などとトンチンカンなことを考えてしまいました(^_^.)

 

その後「多気太郎」とは多気山にあった多気城の城主だった平義幹のことであり、「常陸大掾」であったことや、「常陸大掾」とはなんなのかというようなことがだんだんに分かってきたので、2011年に改めて多気太郎のお墓を探しに出かけてみました(^o^)

 

多気太郎の墓 

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多気太郎が建立したという無量院へ行ってみると、その生涯が刻まれた石碑がありました。

 

多気太郎とは? 

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碑文には「名君の誉れ高く」と記されていましたが、地元では今も「たきたろさま」と呼ばれて大事にされているそうです。

 

当時、常陸国で大きく勢力を広げていたのは常陸大掾の平氏の一族で、常陸の南部から下総を支配していた平将門は、「新皇」を名乗って独立国を作ろうとした朝敵だとされていますが、最上位にランクされた大国で「親王任国」であり、虫麻呂が「常世の国」と記した常陸国は、朝敵となりうるほど豊かな所だったのですね(^o^)

 

でも、現地に残されているものから歴史の因果を辿ってみると、この事件の真相は「日本三大悪人の将門が起こした謀反」とはかなり様相が違うようで、現地には、前常陸大掾・源護の3人の息子たちが将門を襲ったのは、この3人が将門の妻に懸想して奪おうとしてのことだったと記されていたので、エッ??と思ったのですが(^_-)

 

桜川市の后神社

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将門の墓と伝わる御門(みかど)御墓

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この時、国香の息子の貞盛と同盟を結んで将門を攻めたのが下野の藤原秀郷だったのですから、小田城の八田知家(本姓・藤原)は、やはり秀郷の子孫のようですね。


日本三大悪人の一人とされる「朝敵将門」像は、一族間の領地争いや権力争いが拡大していった結果、成り行きでそうなってしまったか、勝った方が将門を極悪人に仕立てて自分たちがしたことを正当化したということなのかもしれません<(_ _)>。将門は国府を襲撃したとされていますが、襲撃したのは国府ではなく、国府にいた一族だったのでしょうし。

 

アトリ

日本には冬鳥として秋にシベリア方面から渡来するスズメ目アトリ科アトリ属の小鳥ですが、今年は毎日同じ場所にやって来ていたのに春になって見かけなくなったと思ったら、一羽が窓の下に落ちていたそうです(T_T)

 
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仲間とはぐれてしまったのか、シベリアに帰ることのできなかったこの鳥は、雨が上がったらサンシュユの木の下に埋めてあげましょう。

 
 

常陸大掾氏と馬場大掾氏

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2017.4.12 常陸大掾氏と馬場大掾氏 

 

頼朝(本姓・源)の台頭で、常陸大掾の多気氏(本姓・平)は小田氏(本姓・藤原)に滅ぼされてしまったわけですが、常陸大掾氏はそれまでにあちこちに勢力を広げていて、6代目常陸大掾平直幹の4人の息子たちは、それぞれ「多気氏」「下妻氏」「東城氏」「真壁氏」になっています。

 

また、5代目常陸大掾平致幹の弟の清幹は、水戸の方へ支配を広げて吉田郷を領する「吉田氏」になり、その一族が「馬場氏」や「石川氏」などとして栄えていたそうで、多気氏が滅んだ後、「常陸大掾」は水戸で「馬場氏」を名乗っていた資幹(すけもと)に引き継がれてその後24代まで続いたそうです。

 

水戸城の歴史 

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水戸城の土塁 

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平安時代に水戸地方を支配していたのは「本姓・平」の常陸大掾氏の一族で、その後この大掾氏を滅ぼして170年間水戸を支配したのが「本姓・藤原」の江戸氏、その江戸氏を滅ぼして取って代わったのが「本姓・源」の新羅三郎源義光の子孫の佐竹氏だったというわけですね。


大掾を引き継いだ馬場氏は石岡に移ったようで、石岡の国府跡に造られた府中城は14世紀の15代大掾・平詮国の築城で、1590年に佐竹義宣に攻められて落城し、その後は移封になるまで佐竹氏が城主になっていたようです。
 

石岡の歴史と大掾氏 

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府中城

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府中城の土塁

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水戸を支配していた吉田氏(本姓・平)を滅ぼした江戸氏は「本姓・藤原」で、その江戸氏を滅ぼした佐竹氏は源義光の子孫の「本姓・源」ですから、どの争いも戦いも源氏・平氏・藤原氏の領地争い、勢力争いだったのですね<(_ _)>

 


鹿島氏・行方氏

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2017.4.13 鹿島氏・行方氏

 

水戸へ支配を広げた5代目常陸大掾平致幹の弟の清幹は吉田郷を領して「吉田氏」となり、その3人の息子は長男が吉田郷を継ぎ、次男は行方、三男は鹿島に移って「行方氏」「鹿島氏」になったようです。

 

清幹(吉田氏)―盛幹(吉田太郎)

       |-忠幹(行方次郎)

       |―成幹(鹿島三郎)

 

この「鹿島氏」「行方氏」に、私は「古代の地形から『記紀』の謎を解く」を出す直前の20119月に「鹿島の神が鹿の背に乗って春日大社に向かって発った」という「跡の宮」の場所を確かめに行った鹿島で偶然に遭遇していました(^o^)

 

鹿嶋市神野の「跡の宮」

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「跡の宮」については第5章「藤原氏の祖廟・春日大社と鹿島神宮を推理する」をご参照ください。

 

旅立つことを意味する「鹿島立ち」は、一般には鹿島の神が「鹿島神宮」から奈良に発ったことに由来するとされているようですが、地元には「鹿島の神」は神宮からではなく「跡の宮」から発ったことがちゃんと伝わっていました(^o^)

 

この時「跡の宮」の近くの城山公園に城跡があることを知って、誰のお城だったのだろう?と興味津々で行ってみました。当時鹿島については、鹿島神宮とアントラーズ以外のことは何も知らなかったので(^_^.)

 

城跡には、「大掾氏族の鹿島氏の居城だった鹿島城」と記されていたのですが、当時は、説明を読んでも意味がよく分かりませんでした<(_ _)>。でも大掾氏と関係があるらしいことが分かったので、後で考えてみることにして写真を撮っておいたのですが、今になってやっと全部が繋がって来たようです(^o^)

 
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右の緑色のところが鹿島城の本丸跡の城山公園で、「跡の宮」は神野4丁目にあり、鎌足の生誕地に造られたという「鎌足神社」は城山の近くにありました(^o^)


この鹿島氏とは、5代目常陸大掾平致幹の弟の清幹の三男の平成幹の子孫なのですが、戦国時代の鹿島氏は鹿島・行方に広大な領地を持って、勢力をふるっていたそうで、この地方の三十三館の城はおおむねこの一族のものだったそうです。


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鹿島城は中世の城郭としては尋常な規模ではなかったそうで、↑の碑文によれば、これを嫉んだ佐竹義宣が秀吉に中傷し、鹿島と行方の城主を常陸太田に呼び寄せて全員を殺してしまったそうで、1591年に鹿島城は落城し、1181年から411年続いた歴史を閉じたのだそうです(T_T)

 

ここには「ああ、常陸平氏は、一族をあげて、佐竹氏の凶暴な刃にかかった」と記されていますが、常陸大掾氏だった筑波の多気氏(平)は、頼朝(源)・小田(藤原)に、水戸の吉田氏(平)は江戸氏(藤原)に、大掾を継いで石岡に移った馬場氏(平)・鹿島の鹿島氏(平)・行方の行方氏(平)は佐竹氏(源)に滅ぼされてしまったわけですね<(_ _)>。カッコ内は本姓(=出自)

 

こうして見ると、記録に残っているのは源氏・平氏・藤原氏ばかりですから、確かに日本人には源氏・平氏・藤原氏の子孫しかいないように見えますが(^o^)、これはみな庶民ではなく領主や城主、つまり征服者・天津族の王族の血を引く支配層の人たちであって、支配層は全てその人達が占めていたということであり、それ以外の日本人は源でも平でも藤原でもなかったのです。

 
 

中臣氏と豊臣氏

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2017.4.14 中臣氏と豊臣氏

 

常陸大掾の一族の吉田氏(本姓・平)→江戸氏(藤原)→佐竹氏(源)によって支配されてきた水戸は、佐竹氏が家康によって移封された後、水戸徳川家の支配地になったわけですが、「得川氏(源)」の系図を買って「本姓・源」になった家康は源氏でも平家でも藤原でもなかったようです(^o^)

 

水戸市元吉田の吉田城址

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これは昭和30年代の写真でしょうか?水田は、今はもう住宅地になってしまっているようです。
 

江戸氏・佐竹氏・徳川氏の水戸城址


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大手橋の右手の台地が徳川時代の二の丸・本丸

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左手の三の丸にある藩校・講道館

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 調べてみると、家康は初め「本姓・藤原」を名乗っていたという説も多いようなのですが、もしそうであれば、源氏の系図を買わなくても任官されたはずですし、「本姓・源」になる工作を藤原北家の近衛前久に頼んだりはしなかったでしょうから、それは違うのではないかと私は思うのですが、本当のことは分かりませんね<(_ _)>
 

水戸の支配者になった徳川家は、「源・平・藤」ではなかったわけですが、近衛前久の猶子になって「本姓・藤原」となった秀吉も「源・平・藤」ではなかったのですよね。

 

松平家康は、得川氏の系図を買って「徳川家康」と名乗っていますが、近衛前久の猶子になって関白になった秀吉は、豊臣秀吉であって、近衛秀吉でも藤原秀吉でもないので、この「豊臣」とは何なのだろう?どこから出てきたのだろう?と疑問に思っていたのですが、秀吉は、表向きは「藤原朝臣・秀吉」として関白になった翌年、天皇から「豊臣」の姓を賜って近衛家から離れたのだそうです(^o^)

 

「臣」は「八色の姓(やくさのかばね)」制定以前の古代の天津族の王族のカバネであり、「朝臣」は「八色の姓」以降の王族のカバネですから、これはつまり、王族ではなかった秀吉に「臣」のカバネを与えることで、関白となって支配層に入る正当性を与えたということであり、秀吉は莫大な献上金を積んで王族の子孫の身分を買ったということなのではないでしょうか(^_-)

 

するとここでピンと来るのは中臣鎌足ですね(^o^)。クーデター・乙巳の変の一等功臣である鎌足は、茨木市の安威に領地を貰っていますが、「中臣」は地名ではありませんから、「中臣」とはいったい何なのだろう?とこれもずっと疑問に思っていました。

 

鎌足は内臣(内大臣)になっていますが、国津族で「連(むらじ)」だった鎌足は、天津族の朝廷で内大臣になることはできなかったはずですから、これはクーデター・乙巳の変での功績に対する論功行賞として内大臣の地位を与えるため、天智天皇が鎌足に「中臣」という王族の「臣」のカバネを与えたのではないでしょうか(^o^)

 

「ナカトミ」と「トヨトミ」、王族ではなかった秀吉へのこの賜姓は、鎌足の前例に倣ったということかもしれません(^_-)。支配階級というのは、有職故実だとか、前例だとか、差別化するために自分たちが作ったしきたりだとかにやたらとうるさい人たちのようですから(^_-)

 
鎌足は、死の前日の天智天皇8年(669年)1015日に大織冠を授けられたそうですが、大織冠を授けられたのは鎌足だけだそうですから、これは鎌足のために特別に作ったものだったのかもしれません。このクーデターの成功がなければ、中大兄もその子孫も絶対に天皇にはなれなかったのですから。


正親町天皇と賜姓

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2017.4.15 正親町天皇と賜姓
 
羽柴秀吉は、いつ豊臣秀吉になったのだろう?と調べてみたら、1586年に正親町天皇が秀吉に「豊臣」の姓を与えたのだそうですが、この天皇は、つい先日司馬遼太郎著『歴史と視点』の中の「人間が神になる話」で見た、出自が定かではない本願寺の顕如に1559年に「門跡(親王または五摂家の出自)の資格」を売った天皇ですね(^_^.)
 
この「人間が神になる話」によれば、先代の後奈良天皇以来天皇家は貧窮をきわめていて、正親町天皇は帝位に就きながら7年間も即位式をあげることができなかったのだそうです。そういえば、信長も1566年に正親町天皇から御料所の回復と誠仁親王の元服費用の拠出を求められ、1569年には「信長を副将軍に任命したい(資格を売りたい)」という打診があったようですが(^o^)
 
司馬氏はこの作品に「それまでもこの後も、日本の宮廷が親王や公家の資格を金で売ったことなどなかった。正親町天皇の貧窮がいかにすさまじかったかが察せられるであろう」と記されていましたが、その後にも、1569年の信長には無視されてしまいましたが、1586年に秀吉に「公家の資格」を売ったようです(^_^.)
 
信長は「神の子孫の資格」を買う代わりに「自分が神になる」と言ったようですが、顕如と秀吉は正親町天皇から資格を買って「神の子孫」になったのですね(^_-)。「神の子孫」になった秀吉は一代限りで滅んでしまいましたが、顕如の子孫は江戸時代にはずっと神の子孫の「ご門跡さま」であり続け、明治維新後は大谷伯爵となって神の子孫を続けていたようです。
 
この「大谷」という姓はどこから出てきたのだろう?と調べてみたら、「浄土真宗の一派である本願寺の法主を世襲によって継承した覚如(親鸞の曾孫)の子孫の家号」だったのだそうで、明治時代に名字必称となった時に、この屋号を姓として用いることにしたのだそうです。「ご門跡さま」として「神の子孫」になってはいましたが、領主や城主のような支配者ではなかったので、親鸞の子孫たちには明治8年まで姓はなかったのですね。
 
「本願寺○○」と書かれたものはあっても、本願寺法主(門主)の家系が「本願寺」を家の名字・姓としたことはなく、「本願寺氏」という氏が存在したこともないそうです。
 
それでは、この屋号の「大谷」は何に由来するのかというと、親鸞の廟堂が京都東山知恩院北門の大谷の地にあったからだそうですから、やはり地名だったのですね(^o^)
 
wikipediaによれば、
 
大谷には「豅」(読みは「ロウ」、意味は「長大な谷」、転じて「おおたに」「ながたに」と訓ずる)の字が充てられたこともあり、後に本願寺は「豅山」(おおたにざん)を山号とした。現在の西本願寺は「豅」の字を分かち、龍谷山本願寺(りゅうこくざんほんがんじ)と号している。龍谷大学の校名の由来でもある。
 
だそうで、龍谷大学の名前は地名の「豅」を分解したものだったのです。名前には何かしら根拠があるのですよね(^o^)
 
 
ネコビタイ便り
 
一茎に二つずつ花を付ける原種の小さなチューリップが咲き始めました(^o^)
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もうすっかり花の終わったバイモには、ギザギザの緑色の実がたくさんついています。
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バイモの別名の「編笠百合」や、学名のFritillariaは花の形に由来するものですが、バイモ(貝母)って何だろう?どこが貝に似ているのだろう?と調べてみたら、球根(鱗茎)を乾燥させた形が二枚貝の殻に似ているのだそうです。球根は見たことがなかったので全く思いつきませんでした(^o^)
 

2017.4.16 鹿島城址と鹿島氏

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2017.4.16 鹿島城址と鹿島氏
 
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鹿島城址のこの碑文には、「(1591年に佐竹義宣が鹿島・行方の33館の城主を常陸太田に呼び寄せてことごとく殺し、鹿島城を落城させた後)慶長の初めに徳川氏が、鹿島義幹の外曾孫の国分胤光に鹿島氏を継がせ、大宮司並びに神宮の神職につかせた。常陸平氏はことごとく佐竹氏の凶刃にかかったが、ひとりこの鹿島氏だけが常陸国一の宮の重職として始祖や中興の祖伝来の古来のしきたりを維持している」と記されています。
 
この碑は、この時に鹿島氏を継いだ国分胤光の10世の孫の鹿島君幹(きみもと)氏が息子の幹直氏や元の家臣と相談して明治26年に鹿島城址に建てた記念碑だそうです。慶長(15961615)から明治26年(1893)まで約300年間で10代ですから、やはり1代は30年前後ですね。
 
天皇家は、現在125代目ということになっていますが、4世紀末の初代崇神天皇から約1600年ですから『記紀』の創った架空の天皇を除くと実際は60代から78代の間ではないかと思います(^o^)
 
碑文には「明治維新に際し、所有地を減らし、世襲職を廃されたとはいえ、氏族に列してあたかも鹿島城の城跡に住んでいるかのようである」とも記されていますから、桓武天皇の子孫は、鹿島で鹿島城主として、落城後は神宮の神職として、明治維新後は大地主の「鹿島氏」として現在まで連綿と続いていたのですね。
 
鹿島城址は北浦を望む小高い所にあります。東征の頃にはこの丘の麓まで海が広がっていたのでしょう。


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鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?

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2017.4.17 鹿島神宮の宮司は中臣氏?鹿島氏?

 

『古事記』は、「天津族が大国主・ナガスネヒコを倒してヤマトを征服し東国を平定した後、鹿島でタケミカヅチに味方した鎌足の祖の大中臣神聞勝命(おおなかとみかむききかつのみこと)に鹿島を神領として与えて沢山の品々と共に鹿島に帰し、大中臣神聞勝命は鹿島の祭祀者になった」と記していますし、鹿島神宮の由緒も同様のことを記しています。

 

鎌足の代では、クーデター・乙巳の変(大化の改新)への論功行賞として鹿島神宮は天智天皇からさらに多くの神領を与えられ、20年毎の社殿の建て替えと毎年の奉幣使(鹿島使い)による奉幣を朝廷から受けていたことが『常陸国風土記』に記されていますし、2010年に行った勝田市(現・ひたちなか市)の武田氏館には、中世には中臣氏が常陸で武田氏(源義光の子孫)や吉田氏(平)と領地争いをしていたことが記されていました。

 

資料を展示している武田氏館

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また鹿島に出かける少し前に行った茨城県桜川市加茂部の鴨大神御子神主玉神社の境内にあった石碑の碑文には「昭和32年3月17日 茨城県神社庁庁長 宮司中臣○○連○比古撰」という文字が刻まれていたので、私は、東征時から昭和まで鹿島神宮の宮司はずっと中臣氏だったのだと思っていました。(○○の部分は薄くて読み取れなかったのですが)

 

鴨大神御子神主玉 (かものおおかみのみこがみのぬしたま)神社

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境内の石碑

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ところが鹿島城址の碑文には、「鹿島義幹の外曾孫の国分胤光に鹿島氏を継がせ、大宮司並びに神宮の神職につかせた」記されていました。それでは鹿島神宮の大宮司は、慶長の初めに鎌足の子孫の中臣氏から平氏の鹿島氏に代わっていて、「明治維新に際して鹿島氏が世襲職を廃された」時に再び中臣氏が大宮司に戻り、昭和32年には「中臣○○連○比古」氏が大宮司になっていたということなのでしょうか?

 
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