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武甕槌命は恋のカミサマ?

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2017.3.18 武甕槌命は恋のカミサマ?

 

春日神社の祭神の一人の武甕槌命(タケミカヅチノミコト)」は、今の談山神社では「恋愛成就のカミサマ」になっているらしい(?)のですが、元は常陸国一宮・鹿島神宮」の主祭神で、鹿の背に乗って鹿島から奈良まで行ったことになっています。

 

そのため鹿は春日大社の神使だとされ、奈良公園には鹿がたくさんいるのですが、タケミカヅチはもちろん実在したニンゲンであって東国征伐軍の武将だったのですから、馬には乗っていたでしょうけれど、鹿の背に乗って奈良まで延々と歩いて行ったというのは作り話だろうと思います(^o^)

 

ではなぜ鹿なのかというと、「鹿島」に関係があるのではないでしょうか。タケミカヅチを祀る神社は全て「鹿島神社」ですし、タケミカヅチが遠征して行った先々には「鹿島」の地名が残っているのですが、その大元は佐賀県の鹿島市のようなので、私はタケミカヅチの最初の領地が佐賀県の鹿島市だったのではないかと考えたのですが(^o^)

 

鹿島アントラーズのホームタウンの茨城県鹿嶋市は、元は「鹿島市」でした。だから「鹿島神宮」であり、「鹿島アントラーズ」なのですが、今は「茨城県鹿嶋市」になっているのですよね。これは、佐賀県の鹿島市と茨城県の鹿島市の間で地名の争いがあり、「佐賀県の鹿島市」が大元だということで茨城県の鹿島市は「鹿嶋」と表記することになったからなのです。

 

鹿嶋市の鹿島神宮

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「神話」では大国主に国譲りを迫りに行ったことになっている武甕槌命は、『古事記』では架空の神武天皇の息子になっていて、「日子八井命(ヒコヤイノミコト)」の弟で神沼河耳命(カムヌナカワミミノミコト=綏靖天皇)の兄の「神八井耳命(カムヤイミミノミコト)」とされていますが、実際は、崇神天皇の息子であり、トヨキイリヒコの弟で、イクメイリヒコ(=垂仁天皇)の兄だったのです。


国技館ロビーの国譲りの図 右が武甕槌命で左が大国主命


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日子八井命が茨田連(まむたのむらじ)・豊島連(てしまのむらじ)の祖で実在の人だったように、神八井耳命(=武甕槌命)も実在の人であり、意富(多)氏の祖なのです。
 

春日神社と鹿島神宮の関係については「古代の地形から『記紀』の謎を解く」の第5章「藤原氏の祖廟・春日大社と鹿島神宮を推理する」をご参照ください。

 

スプリングエフェメラル カタクリ

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2017.3.19 スプリングエフェメラル カタクリ
 
今年のカタクリはどうかな?そろそろ蕾が上がって来て、今日の暖かさで咲き始めるかもしれないと思い、じっくりと観察するために朝早くカタクリの自生地へ出かけてみました。
 
ほんの一角ですが、起伏があって古代の里山風景を彷彿とさせるこの場所が私はとても気に入っていたのです。ところが・・・・・
 
去年までとは全く様子が変わってしまっていて、周りが完全にフェンスで囲まれてカタクリの間の土の道は舗装され、崖には金属の階段が付けられて里山風景は消え、すっかり人工的な公園のようになってしまっていました(T_T)
 
去年までは
 
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今年は
 
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おまけに出入り口には鍵がかけられ、900500の間しか中には入れないようです。道際の土手も土止めの柵で固められ、そこに咲いていたカタクリもなくなっていましたから、もう早朝の人の少ない時間に観察することもできません(T_T)。カタクリは見世物になってしまったようです<(_ _)>
 
葉はたくさん出ていましたが、近づくことができないので蕾の様子を見ることはできませんでした。でも、フェンス越しに写した写真には、左下の二枚葉の株に蕾が写っていますから、もうすぐですね。


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 去年の様子は
 

支配地の地名と姓

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2017.3.20 支配地の地名と姓

 

昨日の新聞のコラム「遊遊漢字学」に「偏傍冠脚」はその文字が表す大まかな意味的範囲を表しているのだけれど、中には一筋縄では説明できないものがあり、その一つが「中国」の意味を持つ「漢」で、なぜこの字にサンズイが付いているのかはパッと見ただけでは分からない、とありました。

 

「漢」が中国を表しているのは、劉邦が樹立した漢王朝が、最も強力で長い期間続いた古代中国を代表する王朝だったからなのだそうです。

 

では、劉邦はなぜ王朝名を「漢」としたかというと、最初に領地として支配したのが現在の陜西省南部にある漢水上流地域だったので、「漢王」を名乗り、大帝国を作った時に国号を「漢」と定めたのだそうですが、「漢」は、もともとは国の名ではなく河の名前だったのでサンズイが付いているのだそうです。なるほど~(^o^)


 なぜ?と思うことにはちゃんとそれなりの理由があり、その因果が分かってみれば論理的に納得できるのですよね(^_-)
 

なぜこのコラムが気になったのかというと、私は、現在「姓」とされているものは初めは地名だったのではないかと考えていたので、劉邦もやはり最初の支配地の地名から「漢(の)王・劉邦」と名乗ったのだということが分かったからです\(^o^)/。

 

ところで、オリンピックのゴルフ場選定はその後どういう結論になったのだろう?と気になっていたのですが、先ほどゴルフ場の方が規約を変える決定をしたというニュースがありました。

 

日本ゴルフ改革会議の提言はやはり無視されたようですね。選定のプロセスははっきりしないまま「(どうせ正会員の資格は限られた人だけなのだから)女も会員にすればいいんだろ」ということで決着するようです。改革などしたくもされたくもないのでしょう。

 

百条委員会が開かれてもでも豊洲移転が決まったプロセスはさっぱりはっきりしないようですし、森友学園の問題も背景やプロセスがはっきりしないまま安倍氏が100万円を寄付したのかしなかったのかという部分に関心が集中していっているようですし・・・・。結局ウヤムヤのままいつのまにかことだけが進んでいくということになるのでしょうか<(_ _)>

 

聖徳太子?厩戸王?

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2017.3.21 聖徳太子?厩戸王?

 

今日の新聞に、「聖徳太子」の表記を「厩戸王」に変更することを2月に公表した文科省が、最終版ではまた「聖徳太子」に戻そうとしているという記事がありました。

 
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去年「ここまで変わった日本史教科書」という本の広告を見て、↓のようなことを考え、固定観念やそれらの固定観念を作り出した学者さんを信奉する「肩書信仰」は簡単には変わりそうもないけれど、それでも少しずつは変わっていかざるを得ないのではないかと思ったのですが、

 
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やはり変わらないようですね<(_ _)>。まだ戦後72年で、明治政府と神祇官がデッチあげて国民に強制的にすり込んだ「嘘八百の国家神道」が否定されてから100年は経っていませんから、意識の変化にはあと30年くらいはかかるということでしょうか<(_ _)>

 

文科省のこの変更は「最近の歴史研究などを反映させたもの」だったそうですが、元に戻す理由は、一般からの意見公募で「表記が変わると教えづらい」という声が多かったからだと記されています。

 

そういった声が本当に多かったとすれば、固定観念や思い込みの慣性力の強さを示しているのでしょうけれど、「そういう声があるから元に戻してしまう」ということは、事実や、より正確な研究の結果を子供に教えるより、教える側が楽な方を子供に教え込むということなのでしょうか<(_ _)>

 

もっとも、「聖徳太子の称号は厩戸王の死後に付けられたものだから厩戸王と表記する」という文科省の修正案も、聖徳太子も厩戸王も架空の人物なのですから、事実でも正確な情報でもなく、修正してもウソであることに変わりはないのですけれどね(^_-)

 

でも、「一般からの意見公募で」というのは本当なのでしょうか?この場合の一般人って誰のことで、どうやって選ばれた人たちなのでしょうね?「天皇の譲位問題」を話し合っている「有識者」ってどんな人達で、誰がどういう基準でその人達を選んだろう?」ということも私は分からなかったのですが、その人達の意見で物事が決まっていくのですよね。

 

このところの一連の動きを見ていると、それらの一般人や有識者を選んだのも、選ばれたのも「日本会議」や「神道政治連盟」の関係者で、「聖徳太子」に戻すように圧力をかけたか、文科省が空気を読んでこのところよく耳にする「忖度」をしたのかな?と疑いたくなってきますけれどね~(^o^)

 

なんといっても、現実にはあり得ない大天才で超能力者で、日本史上他に類を見ない聖人君子であり、子孫が全て自害して絶えた悲劇の人でもある「聖徳太子」は、嘘八百のオハナシの中でもピカイチの人物ですし、国家神道にとっても宗教界にとってもいろいろな意味で「稼ぎ頭」でしょうから(^_-)

 

森友学園の問題は、否定されつつある「虚偽の国家神道」をなんとか盛り返し、「神の子孫」であることを根拠として得てきた自分たちの特権を守りたい人たちの最後のあがきかな?という気もしますけれど・・・・・・

 

根拠のない華族制度はすでに廃止され、旧華族の男性だけが正会員になれた華族会館も廃止されて(霞会館と名前を変えてまだ存続しているようですが)、正会員になれるのは旧華族の男性だけだった霞が関カンツリー倶楽部も、女性の正会員を認めざるを得なくなるなど、虚偽の国家神道を根拠としてきた特権や利権は足下から崩壊しつつあるようですから(^_-)

 

聖徳太子

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2017.3.22 聖徳太子

 

教科書に載っていて肖像画まである「聖徳太子」を、「昔はそんなすごい人がいたんだ」と思い、その存在を疑ったことなどありませんでした(^o^)。というか、ほとんど関心がなくて、たまたま漫画を読むまでは「一万円札の人」ということくらいしか知らなかったのですが

 
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漫画を読んで、「本当はどんな人だったのだろう?」と興味が湧いてきたので調べ始めてみたら、聖徳太子の人物像ばかりではなく、聖徳太子が生きていた時代そのものが謎だらけだということが分かって来て、今度は『古事記』や『日本書紀』のような歴史の記録がちゃんとあるのに「なぜ謎だらけなのだろう?」という方に関心が向いてしまったわけです(^o^)

 

調べ始めると次から次へと湧いてくる疑問を「なんで?なんで?」と追及していたら、『古事記』も『古事記伝』も「嘘ばっか」で、定評のある学者さんたちの「解釈」はその嘘のつじつま合わせばかりだということが見えてきてしまったのです<(_ _)>

 

古代史に関心があったわけではなかった私は、知らないことばかりだったので疑問が湧くたびに全て一から調べなければならなかったのですが、何も知らなかったために文献や解釈書から都合の良い部分だけを取り出してつじつま合わせてしまうことができなかったので、結果的に様々な謎が解けることになりました(^o^)

 

固定観念や知識による思い込みがあると、ないものがあるように見えてしまったり、実際にあるものが見えなかったりするようですが、先入観も知識もなかった私には、あるものはあり、無いものは無いとしか見えなかったので、「・・・と考えればよい」としてつじつまを合わせてしまうことができなかったのです(^o^)

 

そして次々と疑問を突き詰めていった結果、聖徳太子(厩戸皇子)も推古天皇も蘇我馬子も架空の人物であり、この時代の大王(おおきみ・天皇)は、答礼使としてやってきた裴世清が煬帝に報告したように「オオキミ・アメノタリシヒコ」であったことが分かりました。教科書が教えているのはウソなのです(^_-)

 

聖徳太子といえば、森友学園事件で初めて教育勅語を見た私は、聖徳太子が作ったとされている十七条の憲法みたいだなと思ったのですが、決定的に違うのは、聖徳太子(実際はアメノタリシヒコ)は、官僚など支配層に守るべき徳目を示したのに対し、明治天皇は12の徳目を庶民に要求したというところのようです。これを教育方針に掲げたことが問題になっているのは、その12の徳目自体に問題があるからではなく、この教育勅語が「神話的国体観」「主権在君」をモットーとしていたからなのですよね<(_ _)>

 

ところで、「国家神道」をすり込まれた戦前・戦中の人々は、「国家神道」の神話や「天皇は神である」ということをほんとうに信じていたのかな~?と疑問に思っていたのですが、満州育ちの安部公房氏は「戦時中、満州にあった日本人学校の生徒たちの中に、天皇を神だと信じていたものは一人もいなかった」と言っておられたそうですし、司馬遼太郎氏は「満州の日本人学校だけでなく、日本の内地の小学校や中学校でも誰もが天皇が神であるとは信じていなかったのではないだろうか。私は青年期になっても、天皇が人間でなく神さまだと信じている友人に出逢ったことがない」と書いておられました(^o^)

 

それじゃ、いったい誰が信じていたのだろう?みんな信じるふりをしていただけだったということなのでしょうか?今国会で「天壌無窮」だの「八紘一宇」だのと言っている国会議員はどうなのでしょう?信じているのでしょうか?それともやはり信じているふりをしているだけなのでしょうか?




「国家神道」を信じていた人はいた?

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2017.3.23 「国家神道」を信じていた人はいた?

 

戦前・戦中の人達(戦争に駆り出された庶民)が「天皇は神だ」ということを信じていなかったという記述は私にとってはちょっとオドロキでした。それでは、ドキュメントやドラマなどによく出てくる「神国日本万歳!」「天皇陛下万歳!」と玉砕する場面は一体なんだったのでしょう?それらは政府発表のフェイク・ニュースだったのでしょうか<(_ _)>

 

私は、戦後72年経った今でも「科学が示している地球や人類の歴史」を無視した荒唐無稽なつじつま合わせの歴史解釈や「国家神道」を復活させるような教育がはびこっているのは、「国家神道」の神話をまだ固く信じている人たちがいるからで、100年くらい経って完全に世代交代するまでは神話を否定するような科学的事実は受け入れられないのだろうと漠然と考えていたのですが・・・・・

 

それではいったい誰が「国家神道」や神話を信じていたのでしょうね?

 

本居宣長や国学者と言われる人達や、荒唐無稽な解釈をしている歴史学者さんたちでしょうか?その方たちは、まさか「こんなのはウソだよ」と思いながら解釈書を書いたり出版したりしていた(る)わけではないでしょうから(^_-)

 

それとも「国家神道教育」を実現させようとしている「日本会議」や、「神道政治連盟」や、それに属する国会議員や、森友学園の籠池氏でしょうか?

 

でも、この方たちは信じているというより、「信じているふり」をして「国家神道」を人脈や票田や資金源として利用しているように見えるのですが<(_ _)>

 

神の子孫であることを根拠にしていた(?)旧華族の皆さんは、自分たち(の先祖)が作ったオハナシなのですし、自分たちがフツーのニンゲンであることをよく御存じでしょうから、「国家神道」や神話を信じているはずはないだろうと思うのですが、この方たちは盛大に信じているふりをし、他人にも信じさせようとするでしょうね(^o^)

 

自分たちは「神話の神の子孫」だということで特権を享受してきたのに、「天皇は神だ」ということを否定したり、否定されてしまったりしたら、その神のお供をして高天原から降臨してきた自分たちの祖先も神ではなかったことになってしまいますから(^_-)

 

「明治政府と神祇官がデッチあげた国家神道」を信じていた人がはたして本当にいたのかどうか分からなくなってきてしまいましたが<(_ _)>、本来は緻密で論理的な人種だったと思われる「日本人」の大部分は、神話を自分の利益に結び付けようとする人や一部の狂信的な人を除いて、戦時中も「国家神道」や神話など信じてはいなかったというのが実情だったのかもしれませんね(^_-)

 

「国家神道」の元になっている『古事記伝』を著した本居宣長は歴史学者ではなかったようですし、現代の歴史学者さんたちが歴史書として古代史解釈の底本としている『古事記伝』は、「国粋主義的哲学」の「思想書」であって「歴史書」ではなかったようです。

 

アイデンティティーと固有種

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2017.3.24 アイデンティティーと固有種
 

証人喚問でも疑惑が増えるばかりでさっぱり解明にも解決にも近づかないようですね<(__)>。一つ一つのことには頼んだ人や頼まれて何かをした人がいたとしても、「全部この人がやったことです」と言える人はいないからでしょう。

 

「愛国心を培い、日本人としてのアイデンティティーを育てる教育をしたい」という安倍首相や大阪維新の会と「国家神道や教育勅語に基づく教育を施す学校を大阪に作りたい」という籠池氏の思惑が一致した結果、「それ行け!!」という空気になり、「瑞穂の國記念小學院」の建設は開校目前まで異例のスピードでとんとん拍子に進んでいったということなのではないでしょうか。

 

「神風が吹いた」と言った籠池氏は、首相夫妻や国会議員や大阪府知事や日本会議の共感とバックアップを得て何をやっても大丈夫だと思ったのかもしれません。でも、同じ方向を向いて一緒に走っているはずだった人たちが、疑惑が浮上したとたんに手のひらを返したようにソッポを向いて自分は何の関係もないと言い始めたため、「はしごを外された」と思ったのでしょう。

 

ところで、今日の新聞に「ワサビは中国雲南省の高地に自生する「シャンユサイ」の祖先と約400万年前に分かれて辛みを獲得した可能性が高いことが分かった」という記事がありました。シャンユサイは、見た目はワサビとそっくりだけれど辛みがなく、雲南省では葉や茎を炒め物などにして食べるそうです。


日本の固有種とされているワサビ種には他にユリワサビがあるそうですが、こちらも約100万年前にシャンユサイの祖先から分かれたと推定されることが葉緑体のDNA配列の解析から分かってきたそうですから、ワサビもユリワサビも日本独自の固有種ではなかったようですね。DNAの解析からはニンゲンも含めた生物のルーツや移動の経路が分かるのです。天から降ってきた神様の子孫なのか、アフリカで発生したホモサピエンスの仲間なのかどうかも含めて(^_-)

 

この記事では「中国大陸と日本列島が陸続きだった時代に自然に分布を広げたと考えられる」とされていましたが、日本列島は2000万年前には中国大陸と離れてしまったようですから、渡り鳥や、中国大陸からや旧石器時代や縄文時代や弥生時代に日本列島に渡って来た人たちがタネを運んできたのかもしれませんね(^o^)


2000万年前の日本

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ニンゲンも西瓜もヒョウタンもそうやってアフリカから日本にやってきたようですしね(^o^)

 

人類の移動ルート

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ヒョウタンの伝播ルート

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つまり、現人類のホモサピエンスも、西瓜も、ヒョウタンもアフリカから発して世界中に広がっていったのであり、日本人は天から降ってきたのでも日本列島の土や海から湧いて出た固有種でもないのです。

 

日本人としてのアイデンティティーや愛国心を育てることは大事でしょう。でも、その基礎を非科学的で非論理的な「嘘八百の国家神道」と「主権在君の教育勅語」に置いて、偏狭なナショナリズムや皇国史観を子供にすり込むのはまちがっていると私は思います。

 

「人間が神になる話」

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2017.3.25 「人間が神になる話」

 

神祇官たちは、明治になると「国家神道」をデッチあげて廃仏毀釈を掲げ、寺院を潰すことに躍起になっていたようです。

 

宇佐神宮の神宮寺だった弥勒寺もこの時廃寺とされたようです。それまでは神職よりも社僧の地位の方が高かったのだそうですが。

 

そして神祇官たちはお手盛りで華族(男爵)になったわけですが、この時、東西本願寺の大谷家だけは神祇官より2ランク上の伯爵になっています。

 

なぜ僧なのに大谷家だけが神祇官より上の伯爵になったのだろう?神祇官たちは文句を言ったり、自分たちも伯爵にしてほしいと不平を言ったりしなかったのかな?と考えていて、司馬遼太郎氏の『歴史と視点』の中の「人間が神になる話」に本願寺のことが書いてあったことを思い出しました(^o^)


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大国主は実在の人だったと考え、「古代の地形から『記紀』の謎を解く」にその推理を書いた私は、その大国主の子孫という方が実在していて司馬氏と同じ会社に勤めていらしたこと、その方から伺ったお話を司馬氏が「生きている出雲王朝」という作品に記されていたことを知って、推理を確かめようとそれが収録されている本をさっそく買いに行きました。

 

書店に出かけたついでに司馬氏の歴史に関する本を何冊かまとめ買いし、店内に併設されているカフェでコーヒーを待っている間に買い込んだ本の目次を眺めていたら、「人間が神になる話」というタイトルが眼に入ったのでその場で読み始めて思わず吹き出してしまったのですよね(^o^)

 

本願寺の門跡が巡錫(旅行)に出た時に、門跡が入ったお風呂の残り湯をこっそり頂戴して飲むと難病が治るという俗信が戦後まであったのだそうで、ある時、門跡が風邪をひいて入浴しなかったので、お付きだった司馬氏の知人が入浴して湯殿を出ると、一人の老婆が素早く入り込んで竹筒に湯を満たして出てきたのだそうです。

―・―・―

老婆は不覚であった。門跡の大腸菌の入っていないものを汲んでしまった。

―・―・―

そこで、気の毒に思った知人は老婆に声をかけ、「あの湯は私が入ったのですが」と言ったところ、しばらく固まっていた老婆は、ぴしゃっと吐き捨てるような勢いでその場に湯を捨てたのだそうです(^o^)

 

大笑いしながら、麻原彰晃が体を洗った水を「飲めば病気が治る聖水」として高額で売っていたというオウム真理教のことを思い出しました。それを聞いた時、「気持ちわるい そんなものを高いお金を出して買って飲む人がいるのかな?」と思ったのですが、これはオウム真理教のオリジナルではなく、伝統的なおまじないだったのですね。「鰯の頭も信心から」ということでしょうか?

 

浄土真宗の始祖の親鸞は、そういった神頼みやおまじないや祈祷などの類いを一切否定していたのだそうですが・・・・・

 

私はオウムの話を聞いた時、そんなものを高額で売るのは食品衛生法違反だし、薬事法違反だし、誇大広告だし、要するに詐欺なんじゃないの?と思ったのですが、宗教を名乗れば何でもありなんですね<(_ _)>。宗教は不輸不入ばかりではなく、治外法権でもあるようです。

 
 
 

「人間が神になる話」2

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2017.3.26 「人間が神になる話」2
 
始祖の親鸞がおまじない的なことを厳しく否定したにもかかわらず、庶民の間では本願寺の門跡のお風呂の残り湯を飲めば難病が治ると信じられていたようですが、こういう奇妙な有難がられ方は他の宗旨には無く、他のお寺の管長さんや貫主さんの残り湯はだれも飲んでくれなかったそうです(^o^)。時代を経てオウム真理教がこの俗信を資金源として利用したようですが。
 
親鸞が祈祷などの(収入源となる)呪術的なものを一切否定したため、その子孫は代々貧窮していたのだそうですが、第八代の蓮如の時本願寺はにわかに日本最大の宗旨になったのだそうで、その蓮如は宗教者というよりも、その時代の誰よりも政治家でありアジテーターだったのだそうです。つまり機を見るに敏でやり手だったということなのでしょうね。でも蓮如も「残り湯を飲めば難病が治る」というようなことは言わなかったようです。
 
この呪術や祈祷を嫌ったということに関しては、江戸末期に天台・真言の祈祷僧のおかげで病気が治ったという噂が広まってしまったさる美男の門跡は、法義を崩したことを先祖に詫び、加持祈祷の効果を否定するために頸動脈を切って自裁し「病死する」ことを迫られたというオソロシいエピソードも記されていました(T_T)
 
「自裁」ってなに?と調べてみて、私は自裁と自決の違いをここで初めて知ったのですが・・・・・<(_ _)>
 
では、本願寺は呪術的なものをそれほどに嫌っていたのに、なぜその法義に反する「残り湯を飲めば難病が治る」などという俗信が庶民の間に広まっていたのでしょうね?
 
これは、第十一世の顕如が本願寺の富を使って逼迫していた正親町天皇から「門跡」の資格を買ったことに起因しているのではないかというのが司馬氏の見解のようです(^o^)
 
「門跡」になれるのは、出家した親王か五摂家(藤原氏)の出身者に限られていたのですが、顕如はその門跡の資格を買ってしまったのですね。親鸞の出自や素性は定かではなかったそうですが、顕如が門跡になったことによって、その子孫は親王や五摂家に準ずる貴種(つまり神の子孫)になったわけです。
 
江戸時代の庶民の間には、お公家さんの食べ残しの飯粒をひねって丸薬のように丸めたものを薬として売るとか、疱瘡を患っている子供がお公家さんの輿に土下座する列の前の方ににじり出て輿に接近すると疱瘡が軽くて済むとか、お公家さんの風呂の残り湯を飲用すると万病に効くとかといった信仰があったそうで、庶民の間ではお公家さんは神に近い存在だと思われていたのではないかということなのですが、これは、多分お公家さん自身が「神から続く系図」を捏造し、それを元にして自分は神の子孫だと吹きまくっていたからなのでしょうね(^o^)
 
将軍や、門跡以外の坊さんの残飯や残り湯は薬にはされなかったそうですから、本願寺の門跡の残り湯だけが万病の薬として有難がられたのは、顕如が門跡の資格を買い取ったことによって大谷家が親王やお公家さんの列に加わっていた(=人間から「神の子孫」になっていた)からということなのでしょう。
 
これが、神祇官や本願寺以外の18家の僧が男爵にしかなれなかったのに、本願寺の門跡だけが2ランク上の伯爵になれた理由であろうと思います(^_-)
 
 
怪我で休場になるかと思い、優勝はとても無理と思われた稀勢の里が優勝しました\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/。先場所に引き続いて今場所も同じシーンが見られるとは思いませんでしたが、稀勢の里関もお母さんも泣いていましたね。稀勢の里関、おめでとう!!

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「人間が神になる話」3

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2017.3.27 「人間が神になる話」3

 

第十一代顕如が、正親町天皇から門跡を勅許されて人間から神になったのは永禄2年(1559年)のことで、桶狭間の戦いの前年のことだったそうですから、信長が台頭して来た頃には、顕如はもう僧侶でありながら神になっていたのですね(^_-)

 

当時本願寺の趨勢は絶頂に達していて、いかなる大大名も本願寺に諸国から上納されてくる金穀の莫大さには及ばなかったそうで、本願寺はその富力を利用して門跡資格を得、大阪湾を見下ろす上町台地の北端(現在の大阪城の場所)に堅固な城塞都市を築き、瀬戸内海などの主要な水運を押さえて全国に組織を持つ大勢力になっていたのです。信長が11年という長い年月をかけて戦ったのはそういう相手だったのですから、やはり以前考えたように宗教を弾圧するための戦いではなかったのです。

 

1566年に正親町天皇から御料所の回復と誠仁親王の元服費用の拠出を求められた信長は、「まずもって心得存じ候(考えておきます)」と返答しただけで、1569年に正親町天皇から「信長を副将軍に任命したい」という意向が伝えられた時も、返答はせずに事実上無視したのだそうです。

 

自身が「神になる」と言ったという信長は、やはり「神」とはいかなるものかがよく分かっていたのでしょう(^o^)

 

そしてこの戦いは、最終的には『村上海賊の娘』に描かれたような信長と石山本願寺に立てこもった一向宗の宗徒との戦いになっていったわけですが、その戦いと、今とは全く違っていたその頃の大阪の地形はこの劇画調の本に詳しく記されていました(^o^)

 

16世紀には上町台地の下は、まだ海に続く砂地や葦原の湿地帯だったのです(^o^)

 

去年は、真田丸の位置がこれまで言われていた位置よりも300m西にあったことが判明したということで、真田丸は北・東・西と崖になっていて周りからは一段高くなった場所に造られていたことなど、その付近の当時の地形が分かってきているようです。

 

地形は時代によって大きく変化しているのです。大阪城が建つ上町台地は20m位あるようですが、周辺は45m位のようですから、16世紀の海面は、現在より45mは高かったのではないかと思います。上町台地の北端の東斜面には森ノ宮貝塚があって、縄文時代には海辺だったことが分かっているわけですし、東征の頃は生駒山の麓の孔舎衙(くさか)まで船で行けたわけですしね(^o^)


今は町中の小さな神社になっている森之宮神社
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さらに前の大国主の時代には↓のように海が奈良盆地や京都盆地まで広がっていたのです(^o^)

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タケミカヅチノミコトの墓

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2017.3.28 タケミカヅチノミコトの墓

 

高天原は、江戸時代初頭までは地上にあったと考えられていたのに、本居宣長が「高天原は天にあった」とする荒唐無稽な説を発表して以降、『古事記』が脚色して記した天津族の征服と王朝樹立の歴史は天のカミサマとカミサマの子孫のオハナシにすり替えられてしまったようです<(_ _)>

 

そしてその『古事記伝』を古代史解釈の底本にしてきた宣長以降の歴史学者さんたちは、こぞって「高天原は天にある」「天皇はアマテラスという女神(江戸時代までは男神だったようですが)の子孫である」ということを前提として古代史の解釈をしてきたわけですが、『古事記伝』を元にして「国家神道」をデッチあげた人たちの子孫は、高天原が地上にあること、神様というのは人間であることをちゃんと知っているようです(^o^)

 

2009年に鹿島神宮に出かけた時に『鹿島神宮誌』を購入したのですが、そこに「鹿島にはタケミカヅチの墓と伝わる古墳はない」と記されていたので私は本当にびっくりしました。

 

「死んだ人が神様や仏様になると聞かされていたのに、その神様は普通は死んでお墓に埋められるということなのか?」「神様がいるのは天ではなく古墳の中なのか?」「神職は、神社がある所には当然神様のお墓(古墳)があるはずだと思っていたのか?」

 

『古事記』の出雲神話で、兄たちに何度も殺される大国主命の話を読んで、「神様も死ぬのかな~?」と疑問に思っていた私が、「カミサマってやっぱりニンゲンだったんだ!」と確信したのはひょっとするとこの時だったかもしれません(^_-)

 

そこから大国主は何度も殺されてそのたびに名前を変えて生き返ったのではなく、名前の数だけ大国主になった人がいたのではないかと考えたら、謎が解けてきたのですが(^o^)、この大国主に関する推理は「古代の地形から『記紀』の謎を解く」の「六人の大国主」などをご参照ください。

 

自分たちが祀るカミサマがニンゲンであることを、神職は良く知っているからこそ、『鹿島神宮誌』はタケミカヅチを祀る鹿島神宮がある鹿島にタケミカヅチの古墳がないのは不思議だと記したのでしょう(^o^)

 

神祇官たち(宮内省諸陵寮)は日本列島を生んだという神代の時代の架空のカミサマのイザナミにまでお墓を作ってしまっているのです(^_-)

 

宮内省が明治33年に決めたイザナミのお墓

 
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でも『古事記』は、タケミカヅチが大国主に国譲りをさせたのは179万年前の神代だと記しているのですよね。その頃には現人類のホモサピエンスはまだ誕生していなかったのですから、もちろんこれは真っ赤なウソなのですが、それにしても、「鹿島にはタケミカヅチの古墳はない」ことを不思議がっているということは、「タケミカヅチは179万年前の神代ではなく古墳時代の人だ」と言っているのと同じではありませんか。「問うに落ちず、語るに落ちる」ってこういうことを言うのでしょうね(^_-)



支配地の地名と姓

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2017.3.20 支配地の地名と姓

 

昨日の新聞のコラム「遊遊漢字学」に「偏傍冠脚」はその文字が表す大まかな意味的範囲を表しているのだけれど、中には一筋縄では説明できないものがあり、その一つが「中国」の意味を持つ「漢」で、なぜこの字にサンズイが付いているのかはパッと見ただけでは分からない、とありました。

 

「漢」が中国を表しているのは、劉邦が樹立した漢王朝が、最も強力で長い期間続いた古代中国を代表する王朝だったからなのだそうです。

 

では、劉邦はなぜ王朝名を「漢」としたかというと、最初に領地として支配したのが現在の陜西省南部にある漢水上流地域だったので、「漢王」を名乗り、大帝国を作った時に国号を「漢」と定めたのだそうですが、「漢」は、もともとは国の名ではなく河の名前だったのでサンズイが付いているのだそうです。なるほど~(^o^)


 なぜ?と思うことにはちゃんとそれなりの理由があり、その因果が分かってみれば論理的に納得できるのですよね(^_-)
 

なぜこのコラムが気になったのかというと、私は、現在「姓」とされているものは初めは地名だったのではないかと考えていたので、劉邦もやはり最初の支配地の地名から「漢(の)王・劉邦」と名乗ったのだということが分かったからです\(^o^)/。

 

ところで、オリンピックのゴルフ場選定はその後どういう結論になったのだろう?と気になっていたのですが、先ほどゴルフ場の方が規約を変える決定をしたというニュースがありました。

 

日本ゴルフ改革会議の提言はやはり無視されたようですね。選定のプロセスははっきりしないまま「(どうせ正会員の資格は限られた人だけなのだから)女も会員にすればいいんだろ」ということで決着するようです。改革などしたくもされたくもないのでしょう。

 

百条委員会が開かれてもでも豊洲移転が決まったプロセスはさっぱりはっきりしないようですし、森友学園の問題も背景やプロセスがはっきりしないまま安倍氏が100万円を寄付したのかしなかったのかという部分に関心が集中していっているようですし・・・・。結局ウヤムヤのままいつのまにかことだけが進んでいくということになるのでしょうか<(_ _)>

 

聖徳太子?厩戸王?

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2017.3.21 聖徳太子?厩戸王?
 
今日の新聞に、「聖徳太子」の表記を「厩戸王」に変更することを2月に公表した文科省が、最終版ではまた「聖徳太子」に戻そうとしているという記事がありました。
 
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去年「ここまで変わった日本史教科書」という本の広告を見て、↓のようなことを考え、固定観念やそれらの固定観念を作り出した学者さんを信奉する「肩書信仰」は簡単には変わりそうもないけれど、それでも少しずつは変わっていかざるを得ないのではないかと思ったのですが、
 
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やはり変わらないようですね<(_ _)>。まだ戦後72年で、明治政府と神祇官がデッチあげて国民に強制的にすり込んだ「嘘八百の国家神道」が否定されてから100年は経っていませんから、意識の変化にはあと30年くらいはかかるということでしょうか<(_ _)>
 
文科省のこの変更は「最近の歴史研究などを反映させたもの」だったそうですが、元に戻す理由は、一般からの意見公募で「表記が変わると教えづらい」という声が多かったからだと記されています。
 
そういった声が本当に多かったとすれば、固定観念や思い込みの慣性力の強さを示しているのでしょうけれど、「そういう声があるから元に戻してしまう」ということは、事実や、より正確な研究の結果を子供に教えるより、教える側が楽な方を子供に教え込むということなのでしょうか<(_ _)>
 
もっとも、「聖徳太子の称号は厩戸王の死後に付けられたものだから厩戸王と表記する」という文科省の修正案も、聖徳太子も厩戸王も架空の人物なのですから、事実でも正確な情報でもなく、修正してもウソであることに変わりはないのですけれどね(^_-)
 
でも、「一般からの意見公募で」というのは本当なのでしょうか?この場合の一般人って誰のことで、どうやって選ばれた人たちなのでしょうね?「天皇の譲位問題」を話し合っている「有識者」ってどんな人達で、誰がどういう基準でその人達を選んだろう?」ということも私は分からなかったのですが、その人達の意見で物事が決まっていくのですよね。
 
このところの一連の動きを見ていると、それらの一般人や有識者を選んだのも、選ばれたのも「日本会議」や「神道政治連盟」の関係者で、「聖徳太子」に戻すように圧力をかけたか、文科省が空気を読んでこのところよく耳にする「忖度」をしたのかな?と疑いたくなってきますけれどね~(^o^)
 

なんといっても、現実にはあり得ないような大天才の超能力者で、日本史上他に類を見ない聖人君子であり、単に太子であって天皇ではなかったはずなのに「日出処の天子」を名乗って隋の皇帝に国書を送ったりした実力者だったのに、一族がみな自害して子孫は絶えてしまったという悲劇の人でもあり、ウソの肖像画が「お札の顔」にまでなっていた「聖徳太子」は、嘘八百のオハナシの中でもピカイチの人物ですし、国家神道にとっても宗教界にとってもいろいろな意味で「稼ぎ頭」でしょうから(^_-)


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(↑の記事は20129月までの推理によるものですが、その後、去年までに、欽明天皇は応神天皇の孫であり、敏達天皇は架空の天皇であったことなどが分かってきています)

 
森友学園の問題は、否定されつつある「虚偽の国家神道」をなんとか盛り返し、「神の子孫」であることを根拠として得てきた自分たちの特権を守りたい人たちの最後のあがきかな?という気もしますけれど・・・・・・
 
根拠のない華族制度はすでに廃止され、華族の男性だけが正会員になれた華族会館も廃止されて(霞会館と名前を変えてまだ存続しているようですが)、正会員になれるのは旧華族の男性だけだった霞が関カンツリー倶楽部も、女性の正会員を認めざるを得なくなるなど、虚偽の国家神道を根拠としてきた特権や利権は足下から崩壊しつつあるようですから(^_-)
 

聖徳太子

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2017.3.22 聖徳太子

 

教科書に載っていて肖像画まである「聖徳太子」を、「昔はそんなすごい人がいたんだ」と思い、その存在を疑ったことなどありませんでした(^o^)。というか、ほとんど関心がなくて、たまたま漫画を読むまでは「一万円札の人」ということくらいしか知らなかったのですが

 
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漫画を読んで、「本当はどんな人だったのだろう?」と興味が湧いてきたので調べ始めてみたら、聖徳太子の人物像ばかりではなく、聖徳太子が生きていた時代そのものが謎だらけだということが分かって来て、今度は『古事記』や『日本書紀』のような歴史の記録がちゃんとあるのに「なぜ謎だらけなのだろう?」という方に関心が向いてしまったわけです(^o^)

 

調べ始めると次から次へと湧いてくる疑問を「なんで?なんで?」と追及していたら、『古事記』も『古事記伝』も「嘘ばっか」で、定評のある学者さんたちの「解釈」はその嘘のつじつま合わせばかりだということが見えてきてしまったのです<(_ _)>

 

古代史に関心があったわけではなかった私は、知らないことばかりだったので疑問が湧くたびに全て一から調べなければならなかったのですが、何も知らなかったために文献や解釈書から都合の良い部分だけを取り出してつじつま合わせてしまうことができなかったので、結果的に様々な謎が解けることになりました(^o^)

 

固定観念や知識による思い込みがあると、ないものがあるように見えてしまったり、実際にあるものが見えなかったりするようですが、先入観も知識もなかった私には、あるものはあり、無いものは無いとしか見えなかったので、「・・・と考えればよい」としてつじつまを合わせてしまうことができなかったのです(^o^)

 

そして次々と疑問を突き詰めていった結果、聖徳太子(厩戸皇子)も推古天皇も蘇我馬子も架空の人物であり、この時代の大王(おおきみ・天皇)は、答礼使としてやってきた裴世清が煬帝に報告したように「オオキミ・アメノタリシヒコ」であったことが分かりました。教科書が教えているのはウソなのです(^_-)

 

聖徳太子といえば、森友学園事件で初めて教育勅語を見た私は、聖徳太子が作ったとされている十七条の憲法みたいだなと思ったのですが、決定的に違うのは、聖徳太子(実際はアメノタリシヒコ)は、官僚など支配層に守るべき徳目を示したのに対し、明治天皇は12の徳目を庶民に要求したというところのようです。これを教育方針に掲げたことが問題になっているのは、その12の徳目自体に問題があるからではなく、この教育勅語が「神話的国体観」「主権在君」をモットーとしていたからなのですよね<(_ _)>

 

ところで、「国家神道」をすり込まれた戦前・戦中の人々は、「国家神道」の神話や「天皇は神である」ということをほんとうに信じていたのかな~?と疑問に思っていたのですが、満州育ちの安部公房氏は「戦時中、満州にあった日本人学校の生徒たちの中に、天皇を神だと信じていたものは一人もいなかった」と言っておられたそうですし、司馬遼太郎氏は「満州の日本人学校だけでなく、日本の内地の小学校や中学校でも誰もが天皇が神であるとは信じていなかったのではないだろうか。私は青年期になっても、天皇が人間でなく神さまだと信じている友人に出逢ったことがない」と書いておられました(^o^)

 

それじゃ、いったい誰が信じていたのだろう?みんな信じるふりをしていただけだったということなのでしょうか?今国会で「天壌無窮」だの「八紘一宇」だのと言っている国会議員はどうなのでしょう?信じているのでしょうか?それともやはり信じているふりをしているだけなのでしょうか?




「国家神道」を信じていた人はいた?

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2017.3.23 「国家神道」を信じていた人はいた?

 

戦前・戦中の人達(戦争に駆り出された庶民)が「天皇は神だ」ということを信じていなかったという記述は私にとってはちょっとオドロキでした。それでは、ドキュメントやドラマなどによく出てくる「神国日本万歳!」「天皇陛下万歳!」と玉砕する場面は一体なんだったのでしょう?それらは政府発表のフェイク・ニュースだったのでしょうか<(_ _)>

 

私は、戦後72年経った今でも「科学が示している地球や人類の歴史」を無視した荒唐無稽なつじつま合わせの歴史解釈や「国家神道」を復活させるような教育がはびこっているのは、「国家神道」の神話をまだ固く信じている人たちがいるからで、100年くらい経って完全に世代交代するまでは神話を否定するような科学的事実は受け入れられないのだろうと漠然と考えていたのですが・・・・・

 

それではいったい誰が「国家神道」や神話を信じていたのでしょうね?

 

本居宣長や国学者と言われる人達や、荒唐無稽な解釈をしている歴史学者さんたちでしょうか?その方たちは、まさか「こんなのはウソだよ」と思いながら解釈書を書いたり出版したりしていた(る)わけではないでしょうから(^_-)

 

それとも「国家神道教育」を実現させようとしている「日本会議」や、「神道政治連盟」や、それに属する国会議員や、森友学園の籠池氏でしょうか?

 

でも、この方たちは信じているというより、「信じているふり」をして「国家神道」を人脈や票田や資金源として利用しているように見えるのですが<(_ _)>

 

神の子孫であることを根拠にしていた(?)旧華族の皆さんは、自分たち(の先祖)が作ったオハナシなのですし、自分たちがフツーのニンゲンであることをよく御存じでしょうから、「国家神道」や神話を信じているはずはないだろうと思うのですが、この方たちは盛大に信じているふりをし、他人にも信じさせようとするでしょうね(^o^)

 

自分たちは「神話の神の子孫」だということで特権を享受してきたのに、「天皇は神だ」ということを否定したり、否定されてしまったりしたら、その神のお供をして高天原から降臨してきた自分たちの祖先も神ではなかったことになってしまいますから(^_-)

 

「明治政府と神祇官がデッチあげた国家神道」を信じていた人がはたして本当にいたのかどうか分からなくなってきてしまいましたが<(_ _)>、本来は緻密で論理的な人種だったと思われる「日本人」の大部分は、神話を自分の利益に結び付けようとする人や一部の狂信的な人を除いて、戦時中も「国家神道」や神話など信じてはいなかったというのが実情だったのかもしれませんね(^_-)

 

「国家神道」の元になっている『古事記伝』を著した本居宣長は歴史学者ではなかったようですし、現代の歴史学者さんたちが歴史書として古代史解釈の底本としている『古事記伝』は、「国粋主義的哲学」の「思想書」であって「歴史書」ではなかったようです。

 

アイデンティティーと固有種

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2017.3.24 アイデンティティーと固有種
 

証人喚問でも疑惑が増えるばかりでさっぱり解明にも解決にも近づかないようですね<(__)>。一つ一つのことには頼んだ人や頼まれて何かをした人がいたとしても、「全部この人がやったことです」と言える人はいないからでしょう。

 

「愛国心を培い、日本人としてのアイデンティティーを育てる教育をしたい」という安倍首相や大阪維新の会と「国家神道や教育勅語に基づく教育を施す学校を大阪に作りたい」という籠池氏の思惑が一致した結果、「それ行け!!」という空気になり、「瑞穂の國記念小學院」の建設は開校目前まで異例のスピードでとんとん拍子に進んでいったということなのではないでしょうか。

 

「神風が吹いた」と言った籠池氏は、首相夫妻や国会議員や大阪府知事や日本会議の共感とバックアップを得て何をやっても大丈夫だと思ったのかもしれません。でも、同じ方向を向いて一緒に走っているはずだった人たちが、疑惑が浮上したとたんに手のひらを返したようにソッポを向いて自分は何の関係もないと言い始めたため、「はしごを外された」と思ったのでしょう。

 

ところで、今日の新聞に「ワサビは中国雲南省の高地に自生する「シャンユサイ」の祖先と約400万年前に分かれて辛みを獲得した可能性が高いことが分かった」という記事がありました。シャンユサイは、見た目はワサビとそっくりだけれど辛みがなく、雲南省では葉や茎を炒め物などにして食べるそうです。


日本の固有種とされているワサビ種には他にユリワサビがあるそうですが、こちらも約100万年前にシャンユサイの祖先から分かれたと推定されることが葉緑体のDNA配列の解析から分かってきたそうですから、ワサビもユリワサビも日本独自の固有種ではなかったようですね。DNAの解析からはニンゲンも含めた生物のルーツや移動の経路が分かるのです。天から降ってきた神様の子孫なのか、アフリカで発生したホモサピエンスの仲間なのかどうかも含めて(^_-)

 

この記事では「中国大陸と日本列島が陸続きだった時代に自然に分布を広げたと考えられる」とされていましたが、日本列島は2000万年前には中国大陸と離れてしまったようですから、渡り鳥や、中国大陸からや旧石器時代や縄文時代や弥生時代に日本列島に渡って来た人たちがタネを運んできたのかもしれませんね(^o^)


2000万年前の日本

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ニンゲンも西瓜もヒョウタンもそうやってアフリカから日本にやってきたようですしね(^o^)

 

人類の移動ルート

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ヒョウタンの伝播ルート

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つまり、現人類のホモサピエンスも、西瓜も、ヒョウタンもアフリカから発して世界中に広がっていったのであり、日本人は天から降ってきたのでも日本列島の土や海から湧いて出た固有種でもないのです。

 

日本人としてのアイデンティティーや愛国心を育てることは大事でしょう。でも、その基礎を非科学的で非論理的な「嘘八百の国家神道」と「主権在君の教育勅語」に置いて、偏狭なナショナリズムや皇国史観を子供にすり込むのはまちがっていると私は思います。

 

「人間が神になる話」

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2017.3.25 「人間が神になる話」
 
神祇官たちは、明治になると「国家神道」をデッチあげて廃仏毀釈を掲げ、寺院を潰すことに躍起になっていたようです。
 
宇佐神宮の神宮寺だった弥勒寺もこの時廃寺とされたようです。それまでは神職よりも社僧の地位の方が高かったのだそうですが。
 
そして神祇官たちはお手盛りで華族(男爵)になったわけですが、この時、東西本願寺の大谷家だけは神祇官より2ランク上の伯爵になっています。
 
なぜ僧なのに大谷家だけが神祇官より上の伯爵になったのだろう?神祇官たちは文句を言ったり、自分たちも伯爵にしてほしいと不平を言ったりしなかったのかな?と考えていて、司馬遼太郎氏の『歴史と視点』の中の「人間が神になる話」に本願寺のことが書いてあったことを思い出しました(^o^)


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大国主は実在の人だったと考え、「古代の地形から『記紀』の謎を解く」にその推理を書いた私は、その大国主の子孫という方が実在していて司馬氏と同じ会社に勤めていらしたこと、その方から伺ったお話を司馬氏が「生きている出雲王朝」という作品に記されていたことを知って、推理を確かめようとそれが収録されている本をさっそく買いに行きました。
 
書店に出かけたついでに司馬氏の歴史に関する本を何冊かまとめ買いし、店内に併設されているカフェでコーヒーを待っている間に買い込んだ本の目次を眺めていたら、「人間が神になる話」というタイトルが眼に入ったのでその場で読み始めて思わず吹き出してしまったのですよね(^o^)
 
本願寺の門跡が巡錫(旅行)に出た時に、門跡が入ったお風呂の残り湯をこっそり頂戴して飲むと難病が治るという俗信が戦後まであったのだそうで、ある時、門跡が風邪をひいて入浴しなかったので、お付きだった司馬氏の知人が入浴して湯殿を出ると、一人の老婆が素早く入り込んで竹筒に湯を満たして出てきたのだそうです。
―・―・―
老婆は不覚であった。門跡の大腸菌の入っていないものを汲んでしまった。
―・―・―
そこで、気の毒に思った知人は老婆に声をかけ、「あの湯は私が入ったのですが」と言ったところ、しばらく固まっていた老婆は、ぴしゃっと吐き捨てるような勢いでその場に湯を捨てたのだそうです(^o^)
 
大笑いしながら、麻原彰晃が体を洗った水を「飲めば病気が治る聖水」として高額で売っていたというオウム真理教のことを思い出しました。それを聞いた時、「気持ちわるい そんなものを高いお金を出して買って飲む人がいるのかな?」と思ったのですが、これはオウム真理教のオリジナルではなく、伝統的なおまじないだったのですね。「鰯の頭も信心から」ということでしょうか?
 
浄土真宗の始祖の親鸞は、そういった神頼みやおまじないや祈祷などの類いを一切否定していたのだそうですが・・・・・
 
私はオウムの話を聞いた時、そんなものを高額で売るのは食品衛生法違反だし、薬事法違反だし、誇大広告だし、要するに詐欺なんじゃないの?と思ったのですが、宗教を名乗れば何でもありなんですね<(_ _)>。宗教は不輸不入ばかりではなく、治外法権でもあるようです。
 
 
 

「人間が神になる話」2

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2017.3.26 「人間が神になる話」2
 
始祖の親鸞がおまじない的なことを厳しく否定したにもかかわらず、庶民の間では本願寺の門跡のお風呂の残り湯を飲めば難病が治ると信じられていたようですが、こういう奇妙な有難がられ方は他の宗旨には無く、他のお寺の管長さんや貫主さんの残り湯はだれも飲んでくれなかったそうです(^o^)。時代を経てオウム真理教がこの俗信を資金源として利用したようですが。
 
親鸞が祈祷などの(収入源となる)呪術的なものを一切否定したため、その子孫は代々貧窮していたのだそうですが、第八代の蓮如の時本願寺はにわかに日本最大の宗旨になったのだそうで、その蓮如は宗教者というよりも、その時代の誰よりも政治家でありアジテーターだったのだそうです。つまり機を見るに敏でやり手だったということなのでしょうね。でも蓮如も「残り湯を飲めば難病が治る」というようなことは言わなかったようです。
 
この呪術や祈祷を嫌ったということに関しては、江戸中期に天台・真言の祈祷僧のおかげで病気が治ったという噂が広まってしまったさる美男の門跡は、法義を崩したことを先祖に詫び、加持祈祷の効果を否定するために頸動脈を切って自裁し「病死する」ことを迫られたというオソロシいエピソードも記されていました(T_T)
 
「自裁」ってなに?と調べてみて、私は自裁と自決の違いをここで初めて知ったのですが・・・・・<(_ _)>
 
では、本願寺は呪術的なものをそれほどに嫌っていたのに、なぜその法義に反する「残り湯を飲めば難病が治る」などという俗信が庶民の間に広まっていたのでしょうね?
 
これは、第十一世の顕如が本願寺の富を使って逼迫していた正親町天皇から「門跡」の資格を買ったことに起因しているのではないかというのが司馬氏の見解のようです(^o^)
 
「門跡」になれるのは、出家した親王か五摂家(藤原北家)の出身者に限られていたのですが、顕如はその門跡の資格を買ってしまったのですね。親鸞の出自や素性は定かではなかったそうですが、顕如が門跡になったことによって、その子孫は親王や五摂家に準ずる貴種(つまり神の子孫)になったわけです。
 
江戸時代の庶民の間には、お公家さんの食べ残しの飯粒をひねって丸薬のように丸めたものを薬として売るとか、疱瘡を患っている子供がお公家さんの輿に土下座する列の前の方ににじり出て輿に接近すると疱瘡が軽くて済むとか、お公家さんの風呂の残り湯を飲用すると万病に効くとかといった信仰があったそうで、庶民の間ではお公家さんは神に近い存在だと思われていたのではないかということなのですが、これは、多分お公家さん自身が「神から続く系図」を捏造し、それを元にして自分は神の子孫だと吹きまくっていたからなのでしょうね(^o^)
 
将軍や、門跡以外の坊さんの残飯や残り湯は薬にはされなかったそうですから、本願寺の門跡の残り湯だけが万病の薬として有難がられたのは、顕如が門跡の資格を買い取ったことによって大谷家が親王やお公家さんの列に加わっていた(=人間から「神の子孫」になっていた)からということなのでしょう。
 
これが、神祇官や本願寺以外の18家の僧が男爵にしかなれなかったのに、東西本願寺の門跡だけが2ランク上の伯爵になれた理由であろうと思います(^_-)
 
 
怪我で休場になるかと思い、優勝はとても無理と思われた稀勢の里が優勝しました\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/。先場所に引き続いて今場所も同じシーンが見られるとは思いませんでしたが、稀勢の里関もお母さんも泣いていましたね。稀勢の里関、おめでとう!!

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「人間が神になる話」3

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2017.3.27 「人間が神になる話」3

 

第十一代顕如が、正親町天皇から門跡を勅許されて人間から神になったのは永禄2年(1559年)のことで、桶狭間の戦いの前年のことだったそうですから、信長が台頭して来た頃には、顕如はもう僧侶でありながら神になっていたのですね(^_-)

 

当時本願寺の趨勢は絶頂に達していて、いかなる大大名も本願寺に諸国から上納されてくる金穀の莫大さには及ばなかったそうで、本願寺はその富力を利用して門跡資格を得、大阪湾を見下ろす上町台地の北端(現在の大阪城の場所)に堅固な城塞都市を築き、瀬戸内海などの主要な水運を押さえて全国に組織を持つ大勢力になっていたのです。信長が11年という長い年月をかけて戦ったのはそういう相手だったのですから、やはり以前考えたように宗教を弾圧するための戦いではなかったのです。

 

1566年に正親町天皇から御料所の回復と誠仁親王の元服費用の拠出を求められた信長は、「まずもって心得存じ候(考えておきます)」と返答しただけで、1569年に正親町天皇から「信長を副将軍に任命したい」という意向が伝えられた時も、返答はせずに事実上無視したのだそうです。

 

自身が「神になる」と言ったという信長は、やはり「神」とはいかなるものかがよく分かっていたのでしょう(^o^)

 

そしてこの戦いは、最終的には『村上海賊の娘』に描かれたような信長と石山本願寺に立てこもった一向宗の宗徒との戦いになっていったわけですが、その戦いと、今とは全く違っていたその頃の大阪の地形はこの劇画調の本に詳しく記されていました(^o^)

 

16世紀には上町台地の下は、まだ海に続く砂地や葦原の湿地帯だったのです(^o^)

 

去年は、真田丸の位置がこれまで言われていた位置よりも300m西にあったことが判明したということで、真田丸は北・東・西と崖になっていて周りからは一段高くなった場所に造られていたことなど、その付近の当時の地形が分かってきているようです。

 

地形は時代によって大きく変化しているのです。大阪城が建つ上町台地は20m位あるようですが、周辺は45m位のようですから、16世紀の海面は、現在より45mは高かったのではないかと思います。上町台地の北端の東斜面には森ノ宮貝塚があって、縄文時代には海辺だったことが分かっているわけですし、東征の頃は生駒山の麓の孔舎衙(くさか)まで船で行けたわけですしね(^o^)


今は町中の小さな神社になっている森之宮神社
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さらに前の大国主の時代には↓のように海が奈良盆地や京都盆地まで広がっていたのです(^o^)

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タケミカヅチノミコトの墓

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2017.3.28 タケミカヅチノミコトの墓

 

高天原は、江戸時代初頭までは地上にあったと考えられていたのに、本居宣長が「高天原は天にあった」とする荒唐無稽な説を発表して以降、『古事記』が脚色して記した天津族の征服と王朝樹立の歴史は天のカミサマとカミサマの子孫のオハナシにすり替えられてしまったようです<(_ _)>

 

そしてその『古事記伝』を古代史解釈の底本にしてきた宣長以降の歴史学者さんたちは、こぞって「高天原は天にある」「天皇はアマテラスという女神(江戸時代までは男神だったようですが)の子孫である」ということを前提として古代史の解釈をしてきたわけですが、『古事記伝』を元にして「国家神道」をデッチあげた人たちの子孫は、高天原が地上にあること、神様というのは人間であることをちゃんと知っているようです(^o^)

 

2009年に鹿島神宮に出かけた時に『鹿島神宮誌』を購入したのですが、そこに「鹿島にはタケミカヅチの墓と伝わる古墳はない」と記されていたので私は本当にびっくりしました。

 

「死んだ人が神様や仏様になると聞かされていたのに、その神様は普通は死んでお墓に埋められるということなのか?」「神様がいるのは天ではなく古墳の中なのか?」「神職は、神社がある所には当然神様のお墓(古墳)があるはずだと思っていたのか?」

 

『古事記』の出雲神話で、兄たちに何度も殺される大国主命の話を読んで、「神様も死ぬのかな~?」と疑問に思っていた私が、「カミサマってやっぱりニンゲンだったんだ!」と確信したのはひょっとするとこの時だったかもしれません(^_-)

 

そこから大国主は何度も殺されてそのたびに名前を変えて生き返ったのではなく、名前の数だけ大国主になった人がいたのではないかと考えたら、謎が解けてきたのですが(^o^)、この大国主に関する推理は「古代の地形から『記紀』の謎を解く」の「六人の大国主」などをご参照ください。

 

自分たちが祀るカミサマがニンゲンであることを、神職は良く知っているからこそ、『鹿島神宮誌』はタケミカヅチを祀る鹿島神宮がある鹿島にタケミカヅチの古墳がないのは不思議だと記したのでしょう(^o^)

 

神祇官たち(宮内省諸陵寮)は日本列島を生んだという神代の時代の架空のカミサマのイザナミにまでお墓を作ってしまっているのです(^_-)

 

宮内省が明治33年に決めたイザナミのお墓

 
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でも『古事記』は、タケミカヅチが大国主に国譲りをさせたのは179万年前の神代だと記しているのですよね。その頃には現人類のホモサピエンスはまだ誕生していなかったのですから、もちろんこれは真っ赤なウソなのですが、それにしても、「鹿島にはタケミカヅチの古墳はない」ことを不思議がっているということは、「タケミカヅチは179万年前の神代ではなく古墳時代の人だ」と言っているのと同じではありませんか。「問うに落ちず、語るに落ちる」ってこういうことを言うのでしょうね(^_-)



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