現在の福岡城跡は町中にあって、海には全く面していません。
福岡タワーから見た福岡城跡
上から見ると平らにみえますが標高は12~13mあって、実際に行ってみると結構な高さがありました。実は鴻臚館は城跡の麓の方にあったのですが、勝手が分からなくて、↓の図の赤い線のように駐車場から城跡に上って、下りてとぐるっと大回りしてしまったのです(^_^.)。
池は城の西にありますから、通常の地図なら左手になるのですが、↑の図は下が北になっているので、大濠公園と池は右に描かれています。
駐車場で鴻臚館跡へはどう行けばいいのか聞いたのですが、「鴻臚館など聞いたことがないし、どこにあるのか知らない」というお返事だったので<(_ _)>、とりあえず案内の標識を探してみようと城跡へ登ってしまったのですよね(^_^.)。まあ、おかげで城跡の高さや地形が分かったわけですが。
貰ってきた資料を見たら、ここは南側の赤坂山から延びる丘陵地を切断して堀を作り、北側(海側)は潟を埋め立てて城下町とし、西側は湾入する入り江(草ヶ江)を大堀に利用し、東側は那珂川まで中堀と肥前堀を繋げて守りとしたのだそうです。
この地は「那珂郡警個村(けごむら)福崎」という地名だったそうですから、江戸時代の初めには南の赤坂山から北に延びる舌状台地の端であり、海(潟)に突き出した「崎」だったようですね。ここに城を構えた黒田氏が、自らの故地である備前国邑久郡福岡にちなんで「福岡」と命名したのだそうです。
同じ地名が全国各地にあるのは、人が移動(移住)すると、本貫の地や故地の地名を移住先につけていたからなのですよね。
例えば、ほとんどがアイヌ語に由来する北海道の市町村名の中に「新十津川町」や「北広島市」などのアイヌ語由来ではない地名がありますが、それらは明治に日本の各地から北海道に開拓民として移住した人たちが付けた出身地の地名で、「新十津川町」は奈良県十津川村から移住した人たちが、「北広島市」は広島県から移住した人たちが付けた地名であることが分かっていますし、全国から人が集まっていた江戸には、ほぼ全国の地名がありますよね。
天津族が東征して行った時に船を着けた生駒山の麓を『古事記』は「草香江」と記していますが、たぶんこれも天津族が故地の福岡の入り江の地名だった「草香江」を生駒山の麓まで湾入していたこの入り江に付けたのでしょうね(^o^)。