2018.1.26 水稲荷と穴八幡22 早稲田大学
また深掘りして「水稲荷と穴八幡」からどんどん離れていってしまいましたが戻ります(^o^)。https://blogs.yahoo.co.jp/sweetbasil2007/43542770.html(1.19)の続きです。
早稲田の古墳群に関する資料は見つからなかったので、戦前の写真か戦後にGHQが撮った航空写真を見れば大隈庭園に古墳があったかどうか分かるかもしれない、もしあったのであれば大隈庭園に行ってみれば古墳の痕跡が残っているかもしれないと思い、大隈庭園と新宿歴史博物館に行ってみることにしました。
結論から言えば、大隈庭園は日曜日で入れず、新宿歴史博物館には古い写真の展示も古墳の情報もなかったので、目的は果たせなかったのですが(T_T)、ウロウロしてみたら面白いものがたくさんありましたし、地形も分かってきました。早稲田大学は、淀橋台の上からこの台地が神田川(古東京湾の入り江)に向かって落ち込んでいく傾斜地にかけて建っていたのです。
そういう地形であるなら、入り江に面した台地の上には遺跡や古墳があったはずなのですが、歴史博物館には「妙正寺川・善福寺川・神田川流域における弥生時代遺跡」の資料はあったのですが、古墳に関する展示や資料はありませんでした<(_ _)>。たぶん新宿の古墳は早い時期に無くなってしまっていたのでしょうね。
台の上を通る早稲田通りから台の下に降りていく「グランド坂通り」に行ってみました。昔ここに「野球場(安倍球場)」があったのだそうですが、野球場は傾斜地には作れませんから、野球場が作られたのは台下の平地だったのでしょうね。
そして大隈庭園は、東門の先の一番低いところにありました。それではここに古墳があったはずはありませんね。標高を調べてみると10mでしたが、10mの高さは秀郷の時代にも、頼朝の時代にも海だったのですから、古墳時代にはまだ海の底だったはずです(^o^)。
下戸塚遺跡では2基の古墳が確認されていて、この遺跡の南東側にある「穴八幡宮」には横穴墓が存在したと言われており、富塚古墳の周辺には古塚が多くあったことが江戸時代の地誌類に記されているそうですが、それらはいずれも台地の上にあったのであって、台地下の大隈庭園には古墳は無かっただろうと私は思います。