2017.12.1 山中地溝帯と海44
海から遠く離れた内陸からクジラや巨大ザメやアンモナイトなどの化石が出てくるのは、それらが生息していた頃にはそこが深い海だったからであり、パレオパラドキシアなどの海辺の生物の化石が出てくるのは、パレオパラドキシアが生息していた頃にはそこが海辺だったからであり、貝塚が出てくるのは、人類がやって来て住みついた頃にはそこが貝の豊富に採れる海辺だったからだろうと考え、それらの場所の地形や標高や地名を現在の地図で調べてみて、やはり海だったのだと確信したのですが、プレートテクトニクスを知らなかった2016年以前は、その変化は海進期・海退期の海面の上下によるものなのだろうかと考えていました。
けれど、海に近い所や標高の低い所(例えば大阪平野・濃尾平野・関東平野のような)は確かにそれで説明がつくのですが、それでは説明のつかないところ(例えばフォッサマグナや内陸部の山中地溝帯のような)もあるので、それはどう考えればいいのだろうと思っていた時、プレートテクトニクスに出会って東日本がいくつもの島に分かれていたことを知り、「なるほどそういうことだったのか」と納得できました(^o^)。
「フォッサマグナは陥没してできた」ということに疑問を持っていた私は、プレートテクトニクスを知って「陥没してできた」のではないことを確信したのですが、専門家がそう考えないのは、「陥没してできた」という思い込みがもう信念になってしまっていて、他の見方や考え方ができなくなっているからなのでしょうか?それとも学問や研究が縦割りで、自分の研究者分野以外には関心がなく、東日本が島になっていたことを知らないからなのでしょうか?それとも知ってはいるけれど「東日本が島になっていた」などというのは「でたらめもでたらめ!!」だと思っているからなのでしょうか?
神流町恐竜センターで購入した資料には、山中地溝帯の地層の成り立ちが↓のように説明されていたのですが、私は納得できませんでした<(_ _)>、
これは、海進と海退のみで説明されているのですが、「海進期には、埼玉の方から海が入ってきて中里も海になった」と考えるこの説明で中里付近の堆積層や化石はつじつまが合うのかもしれませんが、山中地溝帯は長野県まで続いていて十石峠の向こう側からもアンモナイトの化石などが出土しており、長野県側も海だったことが分かっているのですよね。
すると海進期には、上がった海面が群馬・長野の県境の山を越えて長野県まで海になっていたのだということになるのでしょうか?
ちなみに十石峠の現在の標高は1351mなのですが、それなら標高がそれ以下の所は全部海面下だったということになってしまいますよね(^o^)。「十石峠は海進期が終わった後で隆起したと考えればよい」のかもしれませんが(^_-)。
何だか、「落ち込んだはずのフォッサマグナの中に古い時代の岩石でできた関東山地が残っているのは、関東山地をフォッサマグナが落ち込んでできた時の落ち残りだと考えればよい」というつじつま合わせの論法によく似ていますね(^o^)。
フォッサマグナの中に落ち残った(?)関東山地