2017.10.5 奈良・小山田古墳の横穴式石室18 聖徳太子信仰
聖徳太子に興味を持って「本当はどんな人だったのだろう?」と調べた時、『日本書紀』には「聖徳太子」という言葉は使われていなかったことが分かりました。
「正史」とされている『日本書紀』に記されているのは「聖徳太子」ではなく「聖人化された厩戸王」なので、文科省は教科書の「聖徳太子」を「厩戸王」に改称しようとしたようですが、それさえも「新しい教科書を作る会」にひっくり返されてしまったため、子供たちは教科書で「聖徳太子のものではないことがすでに分かっている聖徳太子の肖像画」と共に架空の「聖徳太子」をすり込み続けられることになったわけですね<(_ _)>。
もっとも、「厩戸王」も『日本書紀』が創った架空の人物なのですから、聖徳太子から厩戸王に改称してもウソであることに変わりはないのですけれど(^_-)。
それでは『日本書紀』の厩戸王はいつ聖徳太子になったのだろう?と調べてみたら、8世紀ににわかに「太子信仰」が盛り上がってきて、鎌倉時代までに『聖徳太子伝暦』など現存するものだけでも二十種以上の伝記や絵伝(中世太子伝)が作られたのだそうですから、厩戸王が聖徳太子になったのは8世紀のようです(^o^)。
現在であれば大金を投じて宣伝をし、世間に名を知られている学者などにマスコミでもっともらしいことを語ってもらえば、トンデモ本でもベストセラーになり、アヤシゲな教団でも大勢の信者を集めることができるようですが(^_^.)、
マスコミも出版社もなかった8世紀の庶民は、どうやって聖徳太子の名前や、100年前の7世紀に死んだ聖徳太子のしたことを知ったのだろう?『日本書紀』には聖徳太子は出てこないそうだし、出てきていたとしても庶民が『日本書紀』を目にする機会などあったはずはないし、機会があったとしても文字が読めなかっただろうし・・・・
などといろいろ疑問に思いながら、その時にはそれ以上のことは分からなかったのですが、8世紀に「聖徳太子」を創り、「太子信仰」を仕掛けたのは、どうやら行信だったようですね。その論功行賞として748年(天平20年)に大僧都の地位を得たということでしょうか(^o^)。
それでは↓の絵を「聖徳太子の肖像」であるということにしたのも「聖徳太子の等身大像」や「聖徳太子の遺品」を捏造した行信なのかもしれませんね。
聖徳太子の肖像画
でも、救世観音菩薩立像は聖徳太子の像のはずなのに、顔が全く違いますよね~。誰かにそのことを指摘されたために、行信は救世観音菩薩立像をぐるぐる巻きにして秘仏とし、誰にも見られないようにしたのかもしれませんね(^_-)。
救世観音菩薩立像
法隆寺の聖徳太子座像
ところで、今朝「村上海賊」についての番組の冒頭の部分が聞こえたのですが、「女帝と道鏡」の時には「文献」を頭から信じて、「道鏡には男性的魅力があったのだ」と言っていた学者さんが、「文献をそのまま信じてはいけない。批判的にみるのも必要だ」と言っていました。
1300年間「文献丸呑み」で非論理的なつじつま合わせに終始してきた歴史解釈も、少しずつクリティカルラーニングにシフトし始めてきたのでしょうか(^_-)。
余談ですが「村上海賊」については、和田竜氏の『村上海賊の娘』が私には面白かったしいろいろ参考になりました(^o^)。