2017.10.4 奈良・小山田古墳の横穴式石室17 行信と法隆寺
アメノタリシヒコ(馬子)が亡くなってから100年以上も経った天平11年(739)に、上宮法皇を「聖徳太子」だとし、救世観音菩薩立像を造って「聖徳太子が在世中に造られた等身大の像」だとして夢殿に設置した行信とはどんな人だったのだろう?と調べてみました。
行信は、奈良時代の元興寺の僧で、738年(天平10年)に律師に任じられ、748年(天平20年)には大僧都になったそうですが、754年(天平勝宝6年)に宇佐八幡宮の神官と組んで厭魅(まじないで呪い殺す)をした罪により下野薬師寺に左遷された薬師寺の行信と同一人物とする説もあるそうです。いったい誰を呪い殺そうとしたのでしょうね?「宇佐八幡宮の神官と組んで」ということは、この時の天皇だった孝謙天皇でしょうか?
行信は738年に律師になるや東伽藍と夢殿を造り始めたようですが、この夢殿には太子ゆかりの遺品が集められているのだそうです。架空の人物に遺品などあるはずはないのですが。
また、行信は聖徳太子著の『法華義疏』を法隆寺に寄進したのだそうです。確かに聖徳太子は、『法華義疏』・『勝鬘経義疏』・『維摩経義疏』の『三経義疏』を著したと学校では教えられましたが、仏像や経典など仏教に関するものが日本に入ってきたのはアメノタリシヒコ(馬子)の時代、つまり聖徳太子の時代だったのですよね。この時に法華経や勝鬘経や維摩経も入ってきていたのでしょうか?
聖徳太子は架空の人物ですから、聖徳太子が『三経義疏』を書いたはずは100%ありませんし、仏教を受け入れ、日本で初めての本格寺院・法興寺(飛鳥寺)を造ったアメノタリシヒコも入って来たばかりの(あるいはまだ当時の日本にはなかったかもしれない)経典の注釈書など著すことはできなかったでしょうから、「行信が発見した」というのはウソで、これは「聖徳太子が書いた義疏」ではなく、「行信(あるいは他の誰か)が書いた偽書」でしょう(^o^)。
行信は、「三経義疏」や「聖徳太子の等身像」や「聖徳太子の遺品」や「推古天皇と聖徳太子が造った」という法隆寺の縁起などを捏造したばかりではなく、厭魅までしていたようですが、なぜそんなことをしたのでしょう?
このような大掛かりな捏造は、行信が個人でできたはずはありませんし、一介の僧の資力でできるようなことでもありませんよね。東伽藍や夢殿や救世観音菩薩立像を造る資金を出した人がいるはずです。
それは誰か?と言えば、そんなことをさせることができたのは、この時代に全ての権力を握っていた藤原氏しかいないでしょう。不比等が主導していた『日本書記』は720年に完成したのですが、この時期の藤原氏は、『古事記』や『日本書紀』に記した作り話に合わせて、日向に高天原を作ったり、出雲に黄泉平坂や出雲大社を造ったり、橿原に神武天皇陵を造ったり、と大掛かりな偽装工作をしていたのです。
この時に架空の聖徳太子を実在に見せかける工作を行信にさせたのではないでしょうか。行信が律師に任じられ、大僧都にまで出世したのは、それらの工作と引き換えに藤原氏に与えられた地位で、754年に左遷されたのは、それを孝謙天皇に知られてしまったためだったのかもしれません。
2014年に読んだ高橋克彦氏のこの時代を舞台にした小説『風の陣』には、この手の陰謀や裏切りや密告や呪詛がてんこ盛りだったのですが、これを読んで、相互の関連がよく分からなかったこの時代の様々な事件の見方が分かってきたような気がしました(^_^.)。