2017.9.19 奈良・小山田古墳の横穴式石室5
9.17の続きに戻ります。
大王・アメノタリシヒコ(馬子)の墓(石舞台古墳)が造られた後の大王墓や王族の墓は、みな八角形に造られていたのですから、方墳とされてきた石舞台古墳は下方上八角形墳であり、都塚古墳もピラミッドのような四角錘ではなく、石が階段状に八角形に積まれていた下方上八角形墳だったのだろうと思います。
学者さんたちの「都塚古墳想像図」
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論理的には蝦夷・入鹿親子の邸宅があった甘樫丘の蝦夷の墓の隣に、赤の他人が巨大な自分の墓を造ったりしたはずはありませんし(^_-)、この菖蒲池古墳は小山田古墳と並んで造られていたのですから、これは学者さんたちが信奉してやまない「文献」に記されている双墓(ならびのはか)であり、大王・入鹿(=馬子の孫)の墓の小陵でしょう(^o^)。
2015年に小山田遺跡へ行ってみた時、菖蒲池古墳の方が高い場所にあるのを見て、あの時代に息子の墓が親の墓を見下ろすような造り方をしたのだろうか?と疑問に思い、また蝦夷の墓は大陵、入鹿の墓は小陵と呼ばれていたということだけれど、なぜ大きさを違えて造ったのだろう?ということにも疑問を持ったのですが、これは見下ろしていたのではなく、同じ高さに造られていたのかもしれません。
蝦夷と入鹿が生前に造った墓なのに、入鹿が自分の墓を蝦夷の墓を見下ろすように造ったはずはありませんし、二人がわざわざ大きさを違えて墓を造ったというのも不自然ですよね。地形の関係で入鹿の墓は少し高い所に造らなければならなったので、墓の高さを揃えるために入鹿の墓の方は低く造ったのではないでしょうか。そのために入鹿の墓は「小陵」と呼ばれるようになったのかもしれませんね(^o^)。
その後、明治維新で武家から支配権を取り戻した明治以降の天皇陵は「上円下方墳」になっているのですが、これはお手本(基準)にした天智天皇の御廟野古墳が「上円下方墳」だと誤解されてきたためであって、御廟野古墳が実際には「下方上八角形墳」であったことはすでに確認されているのですよね。
架空の天皇にも古墳が治定されているなど、明治の宮内省の治定には不審なものが多いのですが、天武・持統陵についてwikipediaを見たら、「この古墳は治定が信頼できる数少ない古代の陵墓である。同様の事例には、天智陵(御廟野古墳)をあげることができる。」とありました。ということは、この二つの古墳以外の治定は全く信用できないということなのでしょうね(^_-)。
天武・持統陵
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宮内省の治定がどのくらい信用できないかという一例をあげておくと、宮内庁は箸墓古墳を倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトソモモソヒメノミコト)の墓に治定しているのですが、『記紀』では「倭迹迹日百襲姫命は紀元前の第7代孝霊天皇の皇女」なのですよね。紀元前のモモソヒメはもちろん架空の人物なのですが、百歩も千歩も万歩も譲ってもしも実在したとしても、紀元前の人なのですから、3世紀半ばに造られた箸墓古墳に入っているはずがないではありませんか(^o^)。そもそも古墳が造られたのは「古墳時代」であって、紀元前には前方後円墳など造られていなかったのですし。
その父である架空の孝霊天皇にも、宮内庁は奈良県北葛城郡王寺町本町3丁目にある片丘馬坂陵(かたおかのうまさかのみささぎ)を治定しているそうですが、一事が万事こういう調子で、天智陵・天武陵以外は論理性も納得性も全くない「ウソばっか」なのです<(_ _)>。
最初はほんとうに訳が分からなくて混乱したのですが(T_T)、分かってみれば単純な話で、『記紀』が記したのは作り話であり、宮内省がその作り話に合わせて、歴史も時代も論理性も全て無視して明治時代に残っていた古墳に『記紀』に記されている天皇や皇后や皇子を割り振り、適当なものがなければ「神武天皇陵」や「雄略天皇陵」や「ウジノワキノイラツコの陵」のように造ってしまっていたということだったのです。