2017.9.9 「塙」って? 武蔵野台地の端(はな) 篭谷戸
御岳山古墳は、野毛大塚古墳に次ぐ規模をもつ大型の帆立貝形古墳で、5世紀中ごろに造られたものだそうですから、野毛大塚古墳の被葬者の次の代の王族だったのでしょう。
この辺りの歴史が謎だらけになっているのは、歴史学者さんたちが『記紀』のウソを信じて、大国主は神代に「国譲り」をした人(神?)で紀元前660年から「万世一系の天皇家が続いている」ことを前提にして、非論理的で矛盾だらけの強引なつじつま合わせをしてきたからなのです<(_ _)>。
そもそも天孫がすでに神代に国を譲り受けていたのであれば、ニニギノミコトの曾孫の神武は戦う必要などなかったではありませんか(^o^)。神武天皇の系譜は↓のようになっているのですが、学者さんたちが一生懸命につじつま合わせをしてきた「天孫降臨」も「国譲り」もウソ(作り話)なのです(^o^)。
ニニギノミコト(降臨したアマテラスの孫)―ホオリノミコト―ウガヤフキアエズノミコト―カムヤマトイワレビコノミコト(=神武)
大国主は実在の人(一人ではなく葦原中国の歴代の王)であり、『記紀』が「神武の東征」として騙ったのは、4世紀末に北九州から攻め上って来た天津族の崇神と、ヤマト(葦原中国)の大国主(最後の大国主・ナガスネヒコ)との戦いであり、葦原中国が出雲にあったというのも、大国主が出雲で国譲りをしたというのも『記紀』の作り話で真っ赤なウソなのです(^o^)。
古墳群のあるこの武蔵野台地の端(はな)は意外に起伏が激しく、等々力渓谷も大きな谷なのですが、世田谷区側の野毛古墳群と大田区側の多摩川台古墳群の間にも大きな谷があったのだそうです。4世紀末~5世紀初めという同じ頃に造られた古墳が、世田谷区側と大田区側で全く形が違うということは、多摩川台側にいた大国主傘下の国津族の王と、野毛側に陣取った天津族の東征軍が、その大きな谷を挟んで戦っていたということなのでしょうね。
その野毛古墳群と多摩川台古墳群を隔てていたという大きな谷がどこのことなのか、地図を見ても分からなかったのですが<(_ _)>、先日行った田園調布八幡には↓のような説明板があり、ここには
「当時、この村の西側、現在の雙葉学園の南側の盆地は篭谷戸(ろうやと)と呼ばれる入江で、多摩川の水が滔々と打ち寄せる自然の良港であり、物資を積んだ舟が盛んに出入りしていた。また、高台部分には東より西へ貫いて鎌倉街道が通り、篭谷戸の港に接続していた。港を中心としてこの一帯には多くの鎌倉武士が駐屯し、鎌倉街道の要衝の地となっていた。そしてこの八幡神社の地は港の入り口に突き出した台地で、船の出入りを監視できる重要な場所であった。」
と記されていましたから、それでは、この港になっていたという所が多摩川台と野毛を隔てていた深い谷だったのでしょうね(^o^)。