Quantcast
Channel: 歴史探訪
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1389

「塙」って?77 武蔵野台地の端(はな)66 世田谷郷土資料館

$
0
0
2017.8.17 「塙」って?77 武蔵野台地の端(はな)66 世田谷郷土資料館
 
上祖師谷神明社から滝坂道を辿って世田谷(大場)代官屋敷敷地内にある世田谷区立郷土資料館に向かいたかったのですが、この道は途中から一方通行になっていたので、滝坂道そのものを行くことはできませんでした<(_ _)>。そこで、なるべく滝坂道に近い所を通って行ってみたら、このところ興味を持って出かけていた所はみなこの道の周辺にあったことが分かり、やはりこの道が中世の世田谷郷のメインストリートだったのだと確認できました(^o^)
 
吉良氏は本拠地としていた世田谷城の周りにいくつもの出城を配置していたようですが、これらの出城は領民管理と徴税のための世田谷城の政庁の支所や出張所だったのかもしれませんね。もし監視し、強制的に取りたてる役人がいなければ、誰も自分の労働の成果を進んで上納したりはしなかったでしょうから(^o^)
 
何の労働もしない支配階級の徴税というのは、非合法組織の上納やみかじめ料などと基本的には変わらないようです(^_-)。違いがあるとすれば、権力を握った人たちは自分たちで法を作って自分たちがしていることを合法化することができたというところでしょうか(^o^)
 
私は「上納」・「縄張り」などの言葉は、非合法組織の言葉だと思っていたのですが、年貢を納めることは「上納」で、築城時の曲輪(くるわ)の配置は「縄張り」だったのですよね(^_-)
 
額に汗してお米を作った人たちが、自分の作った米を食べることもできずに飢えて死に、何一つ生み出していない人たちが飽食して風船のように太り、自分の意に反する者は叔父でも兄でもみな容赦なく殺してしまうという、人が人を支配する王制(支配体制)というのは理不尽で不合理な制度だからこそ、それを正当化するために「神話」や神格化が必要だったということなのでしょう。今も古代と全く変わらない「将軍様の国」を見ているとそのことがよく分かります<(_ _)>
  
吉良氏の出城があったと思われる八幡神社が1km毎に配置されていたのは、税の取り洩らしがないように管理するためだったのかもしれません(^o^)。みずからは働かずに贅沢をする人たちの富や収入の源は、領民の労働の成果をどれだけ搾取できるかということしかなかったのですから。
 
ところで、吉良氏の出城があったのではないか?と勝利八幡に行ってみた時、勝利八幡は烏山川からは離れていたので、坂になっていた北東の方向に別の川があったのではないか?と考えたのですが、本当に川があったのかどうか、その川は何という川でどこをどう流れていたのかが分かりませんでした<(_ _)>
 
ところが勝利八幡の北東を流れていたその川は、今は暗渠になっている北沢川だったことが世田谷郷土資料館で分かりました\(^o^)/。実地踏査をして知りたいことが出てきたら、地元の人に聞くか、地元の資料化館へ行ってみるのが一番なのです(^o^)
 
イメージ 1


 吉良氏が世田谷城を築いて本拠地としていたのは、北沢川と烏山川に囲まれた台地で、その台地を貫いていた道が「滝坂道」だったようです。
 
ネコビタイ便り
 
先日秋の彼岸より1か月半以上も早く咲いてしまう!と驚いたヒガンバナは、曼珠沙華ではなくピンクのナツズイセン(リコリス・スクアミゲラ)だったことが分かったのですが、

イメージ 2


 
23日前にまた今度はたくさんのヒガンバナが一斉に伸びていることに気が付いてまた驚いてしまいました(^o^)。でも、順番からいくと、これも赤い曼珠沙華ではなく、ピンクに青味が入るリコリス・スプレンゲリーかもしれません。2,3日すれば正体が分かるでしょう。その後花弁に桃紫色の筋が入るリコリス・インカルナータ、黄色のリコリス・オーレア、白いリコリス・アルビノと続いて、最後が赤い曼珠沙華かな(^o^)

イメージ 3


 8.1に播いたマンゴーの芽が出ていました。うっかり鉢をひっくり返してしまったのでついでに土から取り出してみたら、ポポーとは違って、種から根は下へ、芽は上へと別々に伸びていました。

マンゴー
イメージ 4


ポポー
イメージ 5


8.15にライチ―も二つ播いてみたのですが、芽が出るかな~。 




Viewing all articles
Browse latest Browse all 1389

Trending Articles