2017.8.14 「塙」って?74 武蔵野台地の端(はな)63 つりがね池
世田谷七沢の一つの廻沢の地名は千歳台に見つかったのですが、「廻沢」という沢はいったいどこにあったのだろう?と地図を見ていたら、廻沢稲荷の南西に「つりがね池公園」というものがありました。ひょっとするとこれが沢の跡なのかもしれないと思って調べてみると、ここは三方を標高45mの高台に囲まれた窪地で、かつては大きな池があり、周辺の高台では「釣鐘池北遺跡」「釣鐘池南遺跡」「釣鐘池東遺跡」など、縄文時代の住居跡を中心とした遺構がいくつも見つかっていたということが分かりました。
池の水は昔も今も、都立祖師谷公園の方へ流れていって仙川に合流し、仙川→野川→多摩川→東京湾と流れているそうですから、それならこのつりがね池は、縄文時代には内陸に入り込んでいた古東京湾に続く海で、この窪地は西側でその海に繋がっていたのだろう、海退によって内陸に取り残された海が、三方を囲む高台の下から湧きだす豊富な水によって真水の池になったのだろう考えて、どんな所か見てみようと出かけてみました(^o^)。
昔は湧水量の豊富な900坪くらいの大きな池だったのだそうですが、この地が昭和49年に都から区へ移管されたあと池の周りの湿地帯が埋め立てられ、南東に流れていた水路も埋められて道にされて区立つりがね池公園として整備されたのだそうで、周辺に家が建てこんでくるにつれて湧水は枯れてしまったのだそうです<(_ _)>。
出かけてみると、先日行った廻沢稲荷まではすんなり行けたのですが、その先は台地の端の常で道が細く入り組んでいて、池がどこにあるのかよく分かりません<(_ _)>。坂の上に出たので、その坂の下が窪地になっていて池があるのではないかと思ったのですが、こういう地形のところには様子が分からないまま突入するのは不安があったので、
行けるかどうか見てこようとしたら、運よく立ち話をしている人がいました(^o^)。つりがね池はやはりその坂の下で、駐車場はないけれど道に車を止めて見に行くことはできるとのことでしたが、この方は地元の方だということが分かったので、この辺りの昔のことを少しお聞きしてみました(^o^)。
すぐそこに社がありましたが、あれは池の弁天様ですか?
いや、あれは稲荷でウチの神社だ
それでは古くからお住まいなのですね。いつ頃からですか?
元禄頃からだね。
廻沢稲荷の氏子さんなのですか?
いやウチは神明社の氏子だ
昔のこの辺りはどんな様子でしたか?
ここは山だったね。この辺りは全部祖師谷村だったんだが、後から祖師谷と上祖師谷に分けられたんだ
なんという名前の山だったんですか?
さあ・・・ 字(あざ)なんとかと言っていたようだけど分からないな
この池は、昔は今よりずっと大きかったのだそうですね?
ああ、今はだいぶ小さくなったね。親父は自分が子供の頃より一反は小さくなったと言っていたよ。区の土地になってからはうるさく言う人がいないし、役人はすぐに変わるから、だんだん家が押し寄せてきて小さくなったんだ。水も枯れたしね。
横山。この辺りはみんな横山という名前だったんだ
おや?と思いました。それではこの山の名前は池の横の「横山」で、ここは「字 横山」だったのかもしれません。「横山」に住んでいた人たちが、明治8年に一斉に横山さんになったのではないでしょうか(^o^)
この短い対話から、やはり稲荷神社は誰でも作ることができたようだということや、神明社の氏子が稲荷を祀っても何の支障もなく、氏子=信者ではないのだということや、台地の端(はな)はここでも山と呼ばれていたということや、姓はやはり住んでいた場所の地名だったようだということなど、ここまで推理してきたことをいろいろ確かめることができました\(^o^)/。
運よく地元の年配の方とお話できると、つじつま合わせばかりで訳の分からない歴史解釈本などを読んでいるよりもずっと面白くて有意義なお話を聞けることが多いのですよね\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/。
埋め立てられて道になっている南東の水路