2017.8.8 「塙」って?70 武蔵野台地の端(はな)59 世田谷七沢八八幡は吉良氏の出城?
粕谷八幡・八幡山八幡・勝利八幡は、世田谷城の北西から北にかけて約1km間隔で並んでいました。変事があればお互いに10分くらいで駆け付けられる距離ですね。滝坂道(府中道)の北にある粕谷八幡と、南にある廻沢稲荷間の距離も1km でした(^o^)。
そこで、吉良氏の出城(砦)は世田谷城を中心に城を囲むように北西から南東にかけて1km間隔で配置されていたのではないか?と考えて残りの代田・北沢・太子堂・駒留の場所と間隔を確かめてみました。
代田八幡~北沢八幡間は1km、北沢八幡~多聞砦(三宿城)間は800m、多聞砦~太子堂八幡間は1.2km、太子堂八幡~駒留八幡間は1kmとこちらもやはり1km前後の間隔で並んでいました。この距離は偶然ではなく意図的なもので、南と西は海や湿地だったため、陸続きの北西から南東まで、1kmごとに出城を配していたのだろうと思います。
世田谷区の南の大田区から品川区にかけては大森貝塚があり、そこまで海だったことが分かりましたが、地図にはさらに内陸の中馬込に「区立貝塚中学校」や「貝塚坂」があったので、おや?と思って調べてみると、その辺りには貝塚を伴う集落遺跡があったそうで、『大森区史』には、「馬込の根方に貝塚といふのがある。石器時代の器物や矢の根などがよく掘り出されたといっている。今もなほ好事家の尋ねて来るものが少なくない」と記されているそうですから、この坂の下も海だったのです(^o^)。
というわけで、吉良氏が出城を置いて守りを固めなければならなかったのは、陸続きの北西から南東にかけてであり、そこに1km毎に出城(砦)を配し、八幡宮を祀って世田谷城の守りとしたのではないかと考えたのですが、勝利八幡~代田八幡の間だけが約3km離れているのですよね。ここだけ3kmも離れているのは不自然ですから、この間にも1kmごとにもう二つの出城があったのではないでしょうか(^o^)。
現在の地図ではこの間に八幡神社や区立学校は見当たらないので、出城がどこにあったのか今はまだ見当がつかないのですが<(_ _)>、この推理が間違っていなければ(多分間違っていないだろうと思うのですが)、そのうち何か分かって来るかもしれません(^o^)。
多聞寺砦(三宿城)には八幡社が無く、多聞寺というお寺になっていましたし、廻沢は稲荷神社になっていましたから、この間の出城の跡は、お寺か違う名前の神社になっているかもしれませんし、跡形もなくなっているかもしれませんが・・・・・
ネコビタイ便り
ポポーは大分大きくなってきたのですが、親離れできないのか、子離れができないのか、まだ種の殻を付けたままです。でも一本だけ葉の付け根から葉と共に殻を落として自立したようです(^o^)。
ライチ―を食べたので、これも播いてみようかなと考えているのですが、8.1に播いたマンゴーの芽はまだ出てきていません。