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「塙」って?71 武蔵野台地の端(はな)60 松陰神社

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2017.8.9 「塙」って?71 武蔵野台地の端(はな)60 松陰神社

 

7.16に世田谷八幡・豪徳寺・世田谷城址に出かけ、さあ帰ろうと思った時近くに松陰神社があることが分かったので、そこにも行ってみてから帰ることにしました(^o^)

 

この松陰とは幕末の吉田松陰のことで、この人もカミサマになっていたのですね(^o^)。つまりカミサマとはニンゲンのことであって、カミサマも神社も天から降ってきたものでも神代からあったものでもなく、ニンゲンが作ったものなのです。

 

明治天皇も、明治の軍人の乃木希典や東郷平八郎も、昭和の小説家・三島由紀夫もみんなカミサマになっていますしね(^_-)

 

清明社とカミサマの三島由紀夫命

 
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東郷神社とカミサマの東郷平八郎命 

 
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東郷神社と乃木神社

 

すっかり忘れていましたけれど、明治神宮は井伊家の下屋敷だったのですよね。

 

松陰神社とカミサマの吉田松陰


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↑には「御祭神 吉田虎次郎藤原矩方命(よしだとらじろうふじわらののりかたのみこと)」と書いてありますが、松陰は本当に藤原氏の子孫の「本姓 藤原」だったのでしょうか、それともどこかの時点で士官するために「本姓 藤原」を名乗ったのでしょうか?

 

吉田松陰と言えば、安政の大獄で直弼に処刑されたのですよね?その人がなぜ井伊家の菩提寺の近くに祀られているのだろう?と疑問に思ったので帰ってから調べてみたら、ここにはかつて長州藩主の別邸があったのだそうで、松陰の門人だった高杉晋作らが小塚原の回向院にあった松陰の墓をここに改葬し、1882年(明治15年)に墓の側に神社を造ったのだそうです。

 

ニンゲンの彼らがニンゲンの松陰をカミサマに仕立てたわけですが、ここには松陰の門人であった伊藤博文、山県有朋をはじめ、松下村塾の生徒もカミサマとして祀られているのだそうですから、神社を作った人たちもみんなここでカミサマになっているようです。子供の頃「人は死んだらみんな神様になるんだよ」と聞かされて、「エ~?カミサマって死んだ人のことなの~?」と思ったのですが、それは本当だったのですね(^_-)

 

↑の由緒に、「ここは大夫山と呼ばれていた」と書いてあったので、おや?ここも台地の端(はな)なのかな?と思って調べてみると、wikipediaには「谷を挟んだ向こう側には豪徳寺がある」と記されていましたから、やはりここも谷に落ちこむ台地の端(はな)で、この端(はな)には長州藩主・毛利大膳大夫の別邸があったので「大夫山」と呼ばれていたようです。

 

蘆花も「豪徳寺から少し行くと谷の向こうに松や杉の茂った丘が見える。吉田松陰の墓及び松陰神社はその丘の上にある」と書いていましたが、その頃のこの辺りは家も少なくて、滝坂道からは周囲の谷や丘といった地形が良く見えていたのですね。

 
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